"人間と性"懇談室4月例会 感想と報告
2013年4月22日
「 江戸のジェンダー 誹風『柳多留』にみる 」
報告者:泉 修二
★ 報告者レジメ
●始めに
二月の例会のあとで「いろはガルタ」をジェンダーの観点から各自作って見てはと
いう提案があり、これを柳多留でやってみた所、ご覧のような70句のカルタができま
した。眺めながら思ったのはジェンダー的な状況に関しては時代、地域、国家などの
違いにより同じレベルでは進んではいない。だから特に日本の近代は近世との比較で
見るのも意味は有ろうと、お引き受けさせて頂きました。柳多留にはずぶの素人なので間違いがあればご容赦ください。
日本の近代の始まりとされる明治維新以後の、欧米文化を主体とする社会システム
と儒教を含む日本の宗教これが家父長制として日本の近代に改めて組込まれたのが江
戸と大きく変った理由でしょう。男女の人権から見ればむしろ逆転,後退していまし
た。此の変化は太平洋戦争によって大改革があったとは言え、未だ残滓は現代日本の
思考の底辺に生き残っています。
●性の形
先ず一つ二つ採上げてみましょう。
☆恐ろしい男同士で痔持ち也 ☆芳町の客女人とてへだて無し
☆後家へ出すかげま壱本つかいなり ☆形は男だが泣く声は女なり
初句からゲイ、バイセクシュアル(かげまが両性を相手をしたり、盛りを過ぎると
女性の相手をした),トランス・ジェンダーと、異性愛とは異なる現代のLGBTと云わ
れるマイナーな性の現象を、開けっぴろげで表現している。それも異性愛と同レベル
で見ている感覚がある。男女間以外の性の形に対して非難はあまり感じない。特にゲイは古代からだが様々な変化が有った。戦国時代に武の傾向から女色より男色賛美の
風潮が生まれ、男女間の愛情に優る武士道的盟約が性交渉を通じて称揚されている。
女歌舞伎から若衆へ、野郎への変化の中で、芳町には蔭間茶屋と称する野郎屋ができ、
賣色の一方女形としても出演した流れがある。
●平安時代の伊勢物語や源氏物語にも近代の表面的道徳観に収斂されるような土壌は見えない。乱暴に言えば、日本文化には倫理感に集約させるのではなく、性の様々な
関わり方の形として捉えていた処があるといえよう。
しかし江戸期に何種類か出版されている女性教育の書物、とても庶民が付いて行けるようなものではないが、例えば元禄期あたりに出された女重宝記などには次のよう
な文がある。「男女の義理を知るために伊勢物語や源氏を読みなさい。しかし好色に
捕われるのは間違いだ。真意は無情を書いている」と。笑わせるなと云いたくなる。
☆業平の瘡をかかぬも不思議也 ☆また文かそこらへ置けとひかる君
この二句は伊勢物語、源氏物語の共に色事を自在に進めた二人への句ですが、柳多留ではこんな扱いです。ずっと素直で納得できますね。大海人皇子(後の天武天皇)
だって天智天皇の側室に恋したのは有名だが、罰せられても居ない。
●武家,富裕層と庶民
女重宝記では「三味線は琉球国より我が朝に渡りたれどもその音淫乱にして楽器に入らず遊女の技となれリ。夢ゆめ引き習い給うべからず」と琴と比較して楽器に迄差別を付けている。柳多留でも次の様にお里が知れると気楽に歌っては居るが、高級顔をするなと家庭事情を皮肉った処遇もみえる。
☆三味線を娵うっかりとひざへ取り ☆琴箱の行き所を見りゃ質屋なり
しかしこの傾向も儒教的道徳観の普遍化によって人間関係としての尊長卑幼と男尊女卑が強くなる。 家督や財産の相続によって近世の家父長制が成立すると、夫婦関係にも主従的要素が見られるようになる。また父系社会は男の血統を保つための蓄妾,養子や女の貞操が説かれることにもなる。女重宝記の女しが(女らしい女)物語を見てください。おともじを付けた女言葉や歌学、香を聞く,茶の湯などを進める行動規範と持つべき技、政治や経済には関係させない、しっかりと夫婦の役割分担になる。
☆女房の留守塩辛で飲んでいる ☆御亭主の留守で鰹を手負にし
☆振袖は言い損ないのふたになり ☆娘がつくで貰い手なし百両
料理方は男性が主役とか、女性らしさの振舞とか財産付きでも嫌などと男とは違う在り方を強めることになる。
●柳多留について
川柳の流れの歴史は今日は省かせてもらいます。しかし投稿形式で集められた柳多留と賞品に付いては庶民ヘの影響力を知って頂くためにこの資料に入れました。投稿を集める組織として江戸の盛り場15ヶ所に受付け設定、点者も何人もいたようです。
投稿料は12文(銭湯6文、そば16文)で、賞品は黒椀10人前とか木綿一反に504文とか立派です。だが柳多留の場合、何層にも構成されている階級制が容認されていた近世を逆手に取って、しかも投稿形式だから誰でも参加できたのが面白い。露出的なえげつなさとお思いですか?。感覚だけでなく、知的なことも魅力です。この次元の作例を取出してみましょう。
先ず一般家庭。
☆色直し前に一口乳をのませ ☆当分は昼も箪笥の鐶が鳴り
☆銭湯へ誘われせなあ大なんぎ ☆乳の黒み夫に見せて旅立たせ
出来ちゃった婚とか,昼間からとか、おおらかな夫婦が見えます。次の二句のように強い利口な女も出てきます。聟養子に気楽を進めたり、大したへそくりを作ったりしてますね。
☆男めかけの氣でいなと聟に言い ☆どっかから出して女房は帯を買い
加えるなら離縁にも庶民の妻は強かったようですね。商売を含めて女の労働力は高かったですから。
☆骨が折れましたと渡す離縁状 ☆去り状を書くうち質をうけにやり
次は舅、姑との同居。
☆羨んでぢぢいを起こす姑ばば
これは若夫婦に刺戟された幾つになっても変らない欲求の表現だが、残り三句は富裕層の隠居などを除いて同居家族構造の中での姑、嫁間の緊張が軸です。
☆楽しみは娵をいびると寺詣り ☆願わくば娵の死水とる気なり
☆やがて死にますと姑女知れたこと
駆込み
☆駆け込みへはりかたをやる里の乳母 ☆みんなしていびりましたと松ヶ丘
これらは男女間の調整機能としての離婚(松ヶ丘は鎌倉の尼寺・東慶寺のあった場所名)施設の句ですが、ジェンダー的視点で申し上げると男優位のシンボル化が多い。
家父長制が男のプライド化を強化させた面もあります。女の振舞はその反面としてです。序ですので、強調や女の振舞への欲求の句も入れて置きましょう。
☆厩戸の皇子へのこが大きそう ☆松ヶ丘へのこ冥利の無いが行き
☆座ってて嫁は着替えてずっと立ち ☆京女立ってたれるが少しきず
農村での昼食やトイレなど忙しいので草鞋を履いたまま。床上へ上がる事など不可能、従って屋外小便器の男と共有は敗戦までは日常的でした。生物としてのセクシュアリティーと役割りとしてのらしさの問題は一筋縄では行かないですが,問題提起をしておきます。
● 不倫と云われる行為
武家と町人とを対比してみましょう。先ず武家から。女房を寝取った男への敵打ですから時代劇とすれば一番情けない敵討ちですね。
☆女敵は討つ方がにくていな(憎らしい)つら
戦が無くなった結果の武道称揚のため女敵打も含めた敵討ち公認に繋がった。藩によっては密夫を討留めなければ、家断絶の様な制度を設けたのもある。江戸幕府は古くはこれを認めたが、後には女敵打ちは家の恥辱を公表するようなものだとの解釈に到った。しかし女敵打を行なった者の家は断絶に及ぶほどではなく、本人の退役か隠居で良いとされた。江戸の末には庶民にも妻敵討ちへの帳付けの制度がおこなわれた。
しかし、此の句は盗まれた奴が駄目な奴なんだと笑っています。
次の二句は町人でしょうね
☆ろけんするまでは夫と無二な奴 ☆間男が抱くと泣きやむ気のどくさ
2句とも妻の浮気相手は夫の親友でしょうが、幼児が間男に懐いているのはいかが。
姦夫姦婦を並べて四つに切ってもという武士の感覚とは大きく違う。表立っても五両で済ますか離縁程度,怒れなかったのは女が強かったですから。
●背景としての農耕民と宗教
これらをキリスト教を信仰する欧米人は理解できませんでした。清潔で何事にも間違いの無い日本人が何故品のない事をするのか。以下は唐人お吉でご存知のハリス総領事の日本滞在記からの抜き書です。
ヒュースケン君が相当な身分の日本人の家へ行き親しい態度で茶などを馳走される。それからその日本人は色んな物の英語の名称を聞き始めた。そこには男の母や妻や娘もいた事を記しておこう。色々聞いてから男は着物の前を開き彼の陰部を手に持って、女達の前で・・その各部分の名称を聞いたのだ。
又ヒュースケン君が温泉へ行った。真裸の男三人が浴槽に居るとき、14才位の若い女が着物を脱ぎ,若い男達の傍に入った。私は混浴は女性の貞操に危険ではないかと副奉行に聞いた。往々そのような事もあると答えた。そこで私は訊ねた。処女であると思われた女と結婚し,床入りでそうで無いと知ったときどうするか・・と。副奉行は「どうにも」、「どうする事ができよう」と答える。
そして素朴な調子で言い添える「私自身もかってそんな事があったがどうする事もできなかった。それは私の落度ではなかった」と。次元の違うことを聞かれて、副奉行も困ったのでしょう。私の落度ではないというのは良いですね。
その時の江戸の環境を英国大使オールコック卿が書いた大君の都から抜書きした風景の美しさ、町中での武士の横暴、褌だけで裸の幼児を抱いた夏の労働者の親子などを想像してください。此の書にはワーグマンの情のこもったイラストが数多く描かれています。屋外での裸足も極めて多かったのです。明治34年になってもペスト予防の
「屋外裸足禁止令」が出されている程ですから。
なお農耕民族として培ってきたバックグラウンドとしての日本文化を日本風俗史事典から取り上げました。古い本ですが民族や文化人類学では既に定説です。「だから
明治以降厳しく取扱われた男女の関係からは想像できないおおらかなものであった。
従って処女を特に尊重し、非処女を社会的に価値の低いものとする思想はなかったと思われる。徳川期に入り村内婚から村外婚への結婚制度の変化は武家社会の支配的道であった男子中心の儒教道徳は庶民社会へ大きく影響する。従って武家や都会の大商家などと庶民階層の間では性道徳にかなりの開きが有った」それが明治へと変り政府による性道徳の管理も手伝って、「男女七才にして席を同じうせず」とか恋愛の否定、処女膜の有無の重視に見られるような戦前の考え方が確立して行った」「性道徳」
野口武徳より抜粋。
上記の纏めとして更に宗教と農耕民の性への関わりを五項目に纏めたのを「家と女性」から取上げて置きました。性や出産と豊穣儀礼,性や性行為の宗教的力です。ここ迄申し上げたので最後に近親相姦の句を挿入します。
☆中条へ息子継母を連れて来る ☆養子にもしろ娘だと蔭でいい
二句とも実父母ではありません。なお、お話の冒頭で源氏物語を出しましたが、国文学者の藤井貞和がその論文「タブーと結婚」でタブー視された関係は恋の失敗と言う形で巧妙に避けられているとある、と「家と女性」の中で波平恵美子は書いています。しかし彼女は同書の中で「日本現代の母子相姦は母子神信仰の伝統や近親相姦を
強いタブーの対象にしない伝統に関わると考える」とも加えています。
●纏め
2時間で纏めるため掲載句の使用を3/5という乱暴な展開で申し訳ありません。更にレジメのため半分に簡略化しました。配布資料を再読頂ければ幸いです。
1: 徳川幕府の衰退期であったとは言え、階級社会の頂点に立つ武家社会の圧力の中で江戸の庶民文化を築き上げた町人のパワーを改めて感じます。だからこそなお西欧近代を丸呑みにした日本の近代の問題もあるのでしょう。
2: 宗教的には神道、仏教、儒教の混合化を日本独自な文化としていると考えます。
キリスト教の影響も当然あります。
明治民法の家父長制では、古来民間で行われた家習慣よりも、遥かに強固な民法が
出来ています。家父長制では妻の貞操に対し、夫の貞操概念は無く、姦通を理由とする妻からの離婚請求は退けられた。しかし妻の姦通は刑法で二年以下の懲役です。
また妻は無能力者として財産監理も駄目だった。太平洋戦争後,無能力者や姦通罪
は消滅しました。しかし現代の法律にも家父長制の残滓は何項目もあります。今日はこれらの点に触れられませんでしたが、宗教を越えた社会規範と感じられる状況
もあり、此れも議論の対象かとも思います。
3: 現代の社会構造変化に対する対応の方向性にも疑問を感じます。施設、経済,コミュニケーションとの三つの対策の在り方を考える時に。経済政策と管理社会優先によって特にコミュニケーションは観念的になり、具体性を欠くばかりか施設、経済との一体感も欠いているのが現代社会ではありませんか。これがジェンダーに影響している部分もありますね。
○配布参考資料 A4:7枚 (内 概要2枚)
「誹風 柳多留」 山沢英雄校訂 岩波文庫 岩波書店 1983
「ゑ入女重宝記」女用訓蒙図彙 家政学文献集続編江戸期8 東京渡辺書店 1970
「江戸古川柳の世界」 下山弘 著 講談社現代新書 講談社 1994
「日本滞在記」 タウンゼント・ハリス 坂田精一訳 岩波文庫 岩波書店1980
「大君の都」ラザフォード・オールコック山口光朔訳 岩波文庫 岩波書店1982
「日本風俗史辞典」 日本風俗史学会 編 弘文堂 1979
「家と女性」 日本民族文化大系10 小学館 1985