"人間と性"懇談室『私の戦争体験』DVD視聴と証言傾聴」 感想と報告

                                                      2020年8月13日

    

 ● DVD視聴と証言傾聴後の話し合い概要

 

 

 ● 証言レジメ

 「成長期の戦争体験と目黒の空襲」   泉 修二       

NO−1   時代背景                    


 私は昭和3年(1928年)、東京・目黒の大鳥神社近くで生まれました。
  今の下目黒住区センターの側で、山手通りと目黒通リの交差点には目黒デパートと名前だけは立派な小さな市場と、大鳥館と呼ばれる和物の映画館がありました。

 あの周辺では他に目黒駅前広場に洋物の目黒キネマ、山手通りとかむろ坂の交差点に和洋上映する亀齢館がありましたし、洋物との付き合いは幼児からでしたね。目黒通りを交差点から西へ登れば昭和8年に日本ダービーが行われた競馬場はあったものの、子どもが下駄スケートで大鳥神社の交差点まで突っ走れる車の少ないノンビリした大通りでした。
  週末には山手通リの大崎広小路からかむろ坂まで夜店で賑わっていました。古本屋の冷やかしにはよく通ったものです。いわば二業地(芸者と料理屋の営業)を持つ目黒不動尊と競馬場とを一日の遊び場とする東京に接した、のんびりした田舎の風情の地域だったといえましょう。
  4歳の時に不動尊西側へ移りました。まだ荏原郡目黒村の匂いの残る、そんな環境にある林業試験所(今の林試の森講演)で技師をする父の3人兄妹の次男坊としての生まれでした。

 引越しも父の勤務地に近い事が理由でした。
  しかし昭和3年という年は、ノンビリした環境とは逆の日本が作られ始めていました。内務省に社会運動を取り締まる、いわゆる特高警察が設置されたり、治安維持法に死刑・無期懲役が追加された年で、共産党の大検挙や労農党への解散命令もこれら諸法と相まっていました。
 当然小学校1年生の国語は「すすめ、すすめ、へいたい すすめ」で始まる時代になっていたのです。
  太平洋戦争の敗戦後に知知った事ですが、明治期自体が欧米列国に追いつけ、追い越せの目的で、近代化と富国強兵のための徴税、徴兵の実を求めて家父長制の家族制度と、その戸籍法を実施したのです。
  そのため女性は嫁に行くと禁治産者(無能力者)並みの規定が(妻の財産、収益権利も夫の管理、夫の不貞は許されるのですが、妻の不貞は2年の懲役刑や離婚の対象とされる。また子どもの親権も夫が持ち、離婚の場合は夫側に置いてゆかねばならない)等を含む男女不平等極まりない明治民法が、明治31年から既に行われていたのですね。
  明治に続く大正時代を大正デモクラシーの呼ぶことがあります。民主主義・社会主義などの風潮の高揚期であり、マルクスやデモクラシーが流行しました。労働運動も活発化した時代でした。しかしこれらの大衆運動も軍国主義の強行の中で欠き消されて行くことになります。
  私の生まれる3年前(1925年)に懸案の普通選挙法が公布されます。しかし当然、禁治産者の女性は除外されます。それだけでなく一般選挙法獲得の見返りに先ほど申し上げた治安維持法を否決されながら、無視の挙句、緊急勅令(急を要する天皇の命令)として軍部に強行公布されます。議会政治の終わりです。
  昭和11年2月26日、行動派青年将校による国家改造を旗印のクーデターが行われます。積雪30cmの夜でしたが、ラジオ放送による「土嚢を積み上げ着剣した銃を構える兵士」の繰り返しのアナウンスの緊張した声は、斎藤実内相・高橋是清蔵相の暗殺と共にいまだに脳裏に鮮やかです。本格的な帝国主義への出発の時だったのです。

NO−2  日中戦争から大東亜戦争へ                         

no−1
  支那事変と呼ばれた日中戦争が始まったのが昭和12年、油面小学校の3年生でした。国民精神総動員のもと八紘一宇だの尽忠報国だの毎朝宮城拝礼から授業が始まり、修身科目も爆弾三銃士やら死んでも口からラッパを離さない木口小平の死に方もありました。都市占領の度の提灯行列や出征兵士送りと、6年生あたりでは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以ッテ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」するための愛国少年になっていました。
no
−2
  芝中学に入学した昭和16年(1941年)から配属将校の下での軍事教練が学科目に加えられます。富士の裾野や習志野での軍事訓練です。兵舎での寝起き、服装もこの年に学生服から戦闘帽、ゲートル(下肢に巻く脚絆)になりました。着剣した銃を持ち、戦車や赤とんぼ(赤く塗った練習用飛行機)も加わった演習にも参加しました。ラッパ卒もやりました。
  この年の12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)に突入、英、米、オランダを相手にまず真珠湾への奇襲攻撃から始まりました。急に鬼畜米英と呼ばれた戦争は私にとって驚きでした。敵性語としての英語は入学後わずか9ヶ月で授業中止を迎えます。先月まで上映されていた米英映画も当然禁止です。英語の勉強できないことは私にとって極めて残念な事でした。
  これは私にとって戦争への矛盾を芽生えさせる出来事だったので余計な話を挟ませていただきます。

 父母とも四国の農家の子でしたが、父は香川県の農学校卒業後に国費留学生として米国ミシガン大学や研究所などに3年の経験を持つたためにアメリカの強大さを知っていたことです。「アメリカは支那やロシアと違う。すぐやられてしまう・・」が何回か聞かされた話でした。

 官吏として日中戦争中も満州、中国、台湾などに出張していたのに、アメリカとの交戦によって初めて矛盾を感じ始めたのではないかと思います。

 私にとって父のバイリンガルが羨ましいくせに、アメリカに負けるとは非国民だと楯突いたりと…私の心の中にも矛盾が芽生えた時点でした。
  戦況は2年も待たず悪化します。旧制中学は5年制だったのが増兵のために4年に短縮され、授業は2年で停止、勤労働員で明電舎から荏原製作所へ、シェイパーや旋盤での軍需品加工の明け暮れになりました。
  この前年あたりですでに日常生活も追い詰められていました。食料総体が配給だし、配給量が減るに従って、芋や大根、カボチャの類が飯に混在するようになりました。

 レストランでも肉と言えばカエルだけ、18年の声を聞くころには店の多くが閉鎖になりました。

 転換した雑炊食堂も業務用のガス自体が停止されたり、風呂屋も3日目か5日に1回の営業しかできない状況に追い込まれたのです。

 それ以前に寺の鐘はおろか街路灯や家庭の金属も強制的に供出させられ、5銭10銭玉等のコインまで兵器の作成のため全て紙幣に代えられたのでした。8月には国民学校の集団疎開が始まり、都市から子どもの姿が消えました。続いて妊産婦の疎開も行われます。
  この年の初冬には兄が大学からの学徒出陣でした。当然俺も戦争に行きたいと泣きましたよ。続いて理工系の学生を除き、17歳以上は兵役に編入になります。「もう家は男一人だから兵隊には行かないでくれ」とは父の本気の頼みでした。

 寡って父に絵描きは否定されはしたものの、私は2年間の勤労動員ですっかり物創りに傾いていました。工場内での見聞き、父の上陸用舟艇や航空機部材の話とともに、動員でいただいた給与で書籍やラジオ作りに熱中していたからでもあったのでしょう。
  また大正11年に開校した東京高等工芸への魅力は、芸大とは違う安田祿造先生の時事新報に載った物創りなどを聞いたことも影響しました。今頃何が工芸だと軍部からの圧力で、受験前に東京工業専門学校と戦争向きの学校に変えられはしたけれど受けることにしたのです。

 ノ ホホンとしていたのですね。影響がどんな結果になるか考えもしなかったのですから。

NO−3   東京への空襲                       
  東京への空襲は開戦の翌年4月18日、航空母艦オーネットから飛び立った16機による東京・横浜・川崎地区の工場施設爆撃がありました。しかしそれ以後、昭和19年の冬までは本格的な来襲はありませんでした。
  日本の劣勢にしたがいマリアナが基地化されたのが始まりでした。11月1日、空の要塞とアメリカが誇るB.29が昼日中偵察に現れました。

 我々はB公と呼んでいましたが、炸裂する高射砲も届かない高度を悠然と飛ぶのが見えました。
  サイパン、グァムとアメリカ軍の基地化に伴い、昭和20年2月には751基の来襲と増える一途でした。しかし米空軍の初期の目的だった軍事基地中心の目標は、日本人の戦意喪失のため都市別の無差別爆撃に変わります。艦載機による機銃掃射も頻繁になり、列車、連絡船、歩行者まで襲われ始めていました。
  3月10日の大空襲一回で、江戸文化の中心であった下町を主体に東京の東側4割は焼き払われました。150機のB29による48,000発を超える焼夷弾は、主体が大小の油脂であり、戦場よりはるかに多い10万人の死者を出す惨禍を読んだのです。
  東京大空襲(早乙女勝元著)によれば、最初に周辺の枠を作り逃げられないようにしたのが原因だったとされています。しかも日本政府は戦意の衰退を恐れて「逃げずに防火せよ」との命令だったのです。

 これ以後、日本全国の都市が順次壊滅することになるのですが、油脂にしろ黄燐にしろ、逃げる以外にないのは明瞭になります。豪雨のように降り注ぐ焼夷弾の数からだけでも指定した火叩き棒やバケツリレーなどの消化法はどれもオモチャ同然だったからです。私は中学の連絡員だったので翌日歩いて登校しましたが、母校は増上寺と共にがれきの惨状でした。
  この年は1年短縮になった就学年限のため4・5年が一緒の受験でした。授業もないのに内申書をどう作るのか、受験問題もたわいがなかった気がしました。

 ともかく受験失敗の浪人組は工場の生産も低下が続いていたので、大空襲の3、4日後、糧秣省の塩貯蔵の建物がやられ、その塩の移動のために出かけて行きました。

 陸上は死体と通路作成で動きにくいからと、伝馬船で隅田川から小名木川を遡り今の猿江恩賜公園の所です。

「川に死臭を漂わす死体がたくさん浮いたまま、ぶつかり、纏わりついてくるんだ。川中の死人にまで手が回らないんだろう…」と体中膨れ上がってきた死体に悲惨さを伝えてくれました。この5日後には羽田に近い私たちの工場も壊滅でした。
  新学期からは浪人組は栃木県小山の糧秣省へ軍事人夫として、進学組は学校にもよるが、私の場合は軍事教練と品川、田町地区の延焼防止用家屋撤去作業から始まりました。

我が家が燃える
  地図をご覧ください。山手線の外・西側は郊外で下町地域ほど高密度ではないし、代々木、駒沢という練兵場や連隊などもあり、従って空爆の方法も異なっていました。

 新宿・幡ヶ谷、五反田・大崎・荏原、蒲田の3ブロックとそれらを結ぶ彼らが必要とする地点を細かくつぶす方法でした。

 新学期を迎えての5がつ24,25,29の3日に渡った東京西部を始め、南、北多摩にまで及んだ爆撃は、東京に対する破壊の総仕上げでした。24,25日ともに250機、焼夷弾は2日でおよそ20万発でした。24日未明、爆撃は2時間程に及んだが、空は真っ赤に染められていました。もう爆音が聞こえても戦闘機の迎撃は見られない状況でした。
  翌朝、西隣の垣根に首を突っ込んだ老人の死骸がありました。我が家周辺の爆撃は免れましたので、翌日は元競馬場内に住む父の妹家庭が焼け出されて3人我が家に同居し、妹も中学進学のため学童疎開から戻り、久しぶりに賑やかな状況でした。

NO−4
 夜半に空襲警報が鳴り、庭の防空壕に走る間に空爆は始まりました。

 焼夷弾は燃焼時にマグネシュウムのような2,3000度の高熱に達するエレクトロンでした。ヒューヒューという音と共に家の内側総体が銀白色のフラッシュのような明るさになります。

 女性たちは壕から飛び出して北側の道へ走りました。残酷な美しさです。

 私と父は居間に飛び込むがシャベルは火元まで届きません。食事室からも2階からも火が吹いています。火叩き棒なぞ糞食らえです。走り回るだけで混乱の極みでした。徒労感の中で三方半の家が火に包まれていました。
 火は隣からグレンの炎に代わります。「修二、諦めるぞ」広縁にあったミシンを庭に放り出そうと試みる私に父の声でした。南の西半分は免れています。

 逃げ道がなくなる前に此処をで出なければ。南のドブ川へ飛び込み、バリバリ音をたてて燃える建築群を頭から臭い水を賭けながら呆然と見ていました。

 朝になってわかったことですが、逃げた女性群のうち母の隣にいた隣家の奥さんの肩から胸にかけてエレクトロンが突き刺さっての即死でした。

 南東の隣家・料亭の近又(きんまた)では、防空壕で6人が蒸し焼きになっていました。本質的には防空壕の構造自体が直撃に耐える構造を持っていなかったのが理由です。
 我が家の焼け跡から12発のエレクロロンの殻が見つかりました。

 この夜の死者3,424名、負傷者13,706名、全焼家屋155,266戸でした。目黒不動も、林業試験場も官舎を除いて消滅しました。追い打ちをかけられたのは入学したばかりの私の学校も全焼し、図書館が残されただけでした。

結びとして
  結局我が家消滅から債権までの2年半、敗戦を挟んで女性二人は香川県の実家の離れと、帰還した兄を含めた3人の男たちは林業試験場の宿舎との二分されて暮らしになりました。

 戦後、裁判所の判事が「私が闇米を食べていたのでは裁判を行うことができない」と自殺したので判るように食料の欠乏と、バラック住まいの人々の改修用材料もないし、有ったとしても21.45u(6・5坪)以上は禁止だったのがその理由です。
  戦後3年ほどは通勤のサラリーマンが駅のホームでしゃがみながら大豆をポリポリかじる姿とか、闇市でスイトン(メリケン粉団子)に食らいついている食料の事ばかりです。焼け跡になった向こう三軒両隣からも富士の裾野で心中された上品なご夫婦、メチールの酒で盲目になった有名企業の役員の方の面影も破線直後の忘れられない記憶です。
  敗戦1年前に戦争用の学校に変えられた母校は、松戸の陸軍工兵学校を使うことになりますが、まともに戦時中のカリキュラムが動き出す前の敗戦です。

 4年後に新制・千葉大学に変わるのですが、その間の試行錯誤は学生にも、教える教師にも過酷だったと言えましょう。学校側も千葉大に残るなら残れるようにしようと特例を設けてくれましたが残る気はありませんでした。
  その後5年ほど苦労することになるのですが、徹夜勤務のある工場に勤めながら、昭和27年に早稲田の2文・美術史学科の3年に編入します。これが本当の勉強だと見にしみるほどの嬉しさでした。

 年代によって異なるが、戦争と成長期が重なると一般的にはこうなります。死に方、殺し方と軍需品作り優先の生活です。隠されていた事態が表に現れるに従って、戦後の数年間はプライドとか、自負というレベルとは程遠い哀れな状況だった事を判っていただきたいと思います。

 戦争のプロセスに対する政府の嘘ばかりではなく、高潔な言葉と裏腹に性格そのものが矮小、卑劣性を理解するほどたまりませんでした。
  大阪の陸軍司令官が6月に「老幼および病弱者は皆殺しにしろ」との流言も、沖縄戦でのガマでの民間人が日本軍の軍人に虐殺されたのも同じレベルだと理解しました。

NO−5

 極東軍事裁判のときの荒木貞夫が「戦争は負けると思った時負けるんだ」とは、これだけ日本を最低の状況に落としながら、戦争末期の一億玉砕の標語と共に、こんな連中に生より死の優先を学習させられたのだと情けなさが先に立ちました。                              
  近頃は、日本の侵略戦争と云うと自虐史観に侵されていると返す連中も増えているようです。いい気なものです。今はもう戦争どころか地球自体を救わねばならない時代です。

 平和憲法は絶対に守らなければなりません。次の世代に希望ある未来を残すために。

      参考資料: 昭和家庭史年表 家庭総合研究会編 河出書房新社  1990年
             東京大空襲   早乙女勝元著   岩波新書    1978年
             日本風俗史辞典 日本風俗史会編  光文社     1079年
             戦争焼失区域表示・帝都近傍図  日本地図株式KK 1946年
2020年8月  日
「第18回語り継ぐ東京大空襲」―目黒の空襲・戦争遺跡巡り― にて講演予定。

略歴

1948年(昭和28年)官立東京工業専門学校工業科を卒業ののち1954年(昭和29年)
早稲田大学第2文学部美術史科卒業。
1948年(昭和23年)から三越百貨店家具設計室、金子徳次郎デザイン研究所、誠工舎東京工場設計課長を経て1969年(昭和44年)泉デザイン事務所を設立。
元(株)日本インテリアデザイナー協会・理事長、 現 武蔵野美術大学・名誉教授