"人間と性"懇談室2月例会 感想と報告

                                                    2020年2月12日

    小町園を知っていますか  

                   話題提供青木 清

 

  ●レジメ補足話し合い

  ・ 小町園とは、米軍の慰安施設。古株の女中さんの証言をもとに、RAAと言われた施設の状況を記した   報告書をもとにした報告。

 

 ● レジメ

  【小町園の悲劇】「Recreation and Amusement Association」


 安田武、福島鋳郎著『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』より


 大森海岸の「小町園」と聞けば、いまの中年の御紳士方なら、ずいぶんと懐かしがる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 戦前は、今のように、温泉マーク(注:ラブホテルのこと)が都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合にたちいたりますと、京浜国道をひと走り、大森の砂風呂へ行こうと、みなさん、よく大森海岸までお越しになったのです。
 小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きい料亭でございました。
 戦前の、落ち着いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描き出したあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。
 現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することを誰も信じていただけないのではないかとおそれています。
 けれど、小町園の柱のひとつひとつ、壁の一面一面には、日本人の娘さんの貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついているのです。

 忘れもしません。
 あれは終戦の年の、昭和20年8月22日のことでした。ご主人が銀座の方へお出かけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ「ここがRAAの第一施設になるらしい」という噂が伝わってきました。
 女中部屋はそれを聞いて、ハチの巣をつついたような騒ぎになりました。
 私には、そのRAAというのがわかりません。
 聞いてみると、特殊施設協会とかいって、政府と警察と、それから私たち業者などが一緒になって作っているお役所で、お金は政府が一億円も出しているということでした。
 でも私たちが驚いたのは、まだ見たこともないアメリカ兵がここへ入ってくる、ということでした。
 そのRAAというのは、進駐軍を迎えてサービスをする施設だというのです。
 「それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所になるってこと?」
 みんなびっくりしました。

 その頃はまだ、パンパンという言葉はありません。
 アメリカ兵は「鬼畜米英」などと新聞に書かれ、私たちも素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を食うなどと思っていたのです。
 皆の不安も無理ありません。
 しかし、あとの騒ぎをいま振り返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ食べなかったけれど、それを同じことをした、と思わずにはいられないのです。

 RAAの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうです。
 けれどさすがに三越が承知しなかったので、大森海岸の料亭では?ということになり、うちに決まったという話でした。
 その話が伝わった翌日には、なんと大工さんが50人もやってきました。
 そして昼も夜もぶっつづけで、こわれたところや、いたんだ箇所を直しはじめました。
 さあ大変です。
 いよいよアメさんがくるのが本当だとわかると、女中の中にはひまをもらって、辞めていく人もあるし、毒薬を懐にして、いざとなったらこれを飲んで死んでやるといきまく者もいます。私も家さえあれば、逃げて行きたいところでした。
けれど、家は焼けて住むところがありません。
 それで、ええ、ままよ、と悪く度胸を据えてしまったのですが、その当時は、女中も、あとから来た慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がないという人が多かったのです。
 ご主人は、私たち20人ほどの女中を集めました。そして、 「この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように」と訓示なさいました。
 けれど私たちは、パンティを2枚履くやら、大騒ぎでした。

 いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むという、その前日のことです。
 お店の前に二台のトラックがとまりました。
 そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へぞろぞろと入ってきました。
 リーダーみたいな男の人が、RAAの腕章をしていました。その女の人たちが、進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかりました。
 私たちは集まって、いたましそうに、その人たちをみやりました。
 モンペをはいている人もいます。
 防空服みたいなものをつけている人もいます。
 ほとんど誰もお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかし何と言っても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘い匂いのようなものがただよっていました。
 この人たちは、みんな素人(しろうと)のひとでした。
 のちに応援にきたひとは玄人(くろうと)の人もいましたが、はじめ小町園に来た人は、みんな素人の娘さんだったのです。

 銀座の八丁目の角のところで、 「新日本の建設に挺身する女事務員」という大看板を出して集めた人たちだったのです。
 ですから、進駐軍のサービスをするということはわかっていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかった人たちもいました。
 なかには、そのときまで生娘だった女性も、何人かまじっていたのです。
 前にちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、 軍人の御嬢さん、 まだ復員してこない軍人の奥さん、 家を焼かれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。
 その30人の人たちは、もちろん、ちゃんと着物を与えられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。
 しかしその上に、何をもらわなくちゃならなかったか、その人たちは、翌日から知ったわけでした。

 8月28日には、アメリカ軍が、厚木基地に進駐してきました。
 何という早さなのでしょう。
 もうその晩には、新装をこらし、灯りをあかあかとつけたお店の前に、組み立ておもちゃみたいな自動車が停まりました。
 そこから5人の兵隊が、何かお互いにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。
 それがはじめてのお客でした。
 その人たちは、缶詰のビールを持ち、めいめい腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で 「ここに御嬢さんたちがいると聞いてきたが」といって、カードを通訳のひとに見せました。
 それには、お店の地図が書いてありました。
 いつの間にかRAAの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。
 主人はよろこんで、この5人の「口切り」のお客様をもてなそうとしました。
 この人たちは、靴のまま上がろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上がると広間でおとなしく持参のビールを飲みはじめました。
 広間で特別に招いた大森芸者の手踊りを見せました。
 けれど彼らはそんなものはさっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんはどこにいるのだと聞き、料理をはこぶ私たちを抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで押し倒して裾に手をいれようとしたりする兵隊もありました。(和服がめずらしかったのでしょう)
 それで私たちは、ご主人に言って、5人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。
 なにしろ、素人の娘さんたちですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。
 それをまるで赤ん坊でも抱くように、ひざの上に抱き上げて、ほおずりしたり、毛だらけの大きな手で
「かわいい」とでも言っているのでしょう、何か言いながら、あちこち体を撫で回したりしているのを見て、私は急いで障子を閉めました。
 廊下で聞いていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。
 泣き声は女で、わめき声は男です。
 おそらく何か月もの間、殺伐な戦場で、女の肌に一度も触れないできたのでしょう。その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。
 物音や、声を聞いていると、女の私でさえ、変な気持ちになりました。
 もう何年もそういうことからは遠ざかっていた私ですから。
 そして、ああ、やっぱり、日本は負けたのだと、日本の娘がアメリカの兵に犯されている物音を廊下で聞きながら、はじめてそのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙が出てきました。
 5人のアメリカ兵は、その夜、12時頃までいて帰りました。私はタバコを1箱、チップにもらいました。
 部屋へ行ってみると、部屋中にアメリカ人の体の匂いが甘酸っぱく漂い、そのなかでRAAの娘さんが顔をおおっていました。
 素顔で体中汗でひかり、いかにも苦しそうに息をはいていました。
 聞いてみましたが、恥ずかしがって何も言いません。
 しかし、皆の話を総合してみると、彼らは思ったよりずっと親切だったそうですが、何しろ体が大きいし、はげしいので、みんなくたくたにされてしまったようでした。
 その5人の兵隊たちが満足したのも無理はありません。彼らは幸せだったのです。処女もその中にひとりいましたし、そうでないのも、ながい間、そううことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。
 だから、女の人も疲れてしまったのです。

 しかし、そんなのんきなのは、この晩だけでした。
 この5人は、嵐の前触れのようなものだったのです。
 翌日は、昼間から、ウワサを聞いた彼らが続々とやってきました。
 大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。
 土足でずかずか上り込み、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで追い回したりします。
 10日ほど経ったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。
 ほかにも、ポツポツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私たちからみたら、なんだか東京中の進駐軍が、みんな私たちのろころへやってくる気がしました。
 ジープが前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとからあとから、兵隊たちはやってきました。
 はじめてやってきた30人の女のうち、ふたりは、最初の晩にどこかへ逃げて行きました。
 残った娘さんたちがお客をお迎えしていたのですけれど、部屋が足りません。
 まるで体格検査場みたいに広間を屏風(びょうぶ)で仕切って、そこに床を敷いて待たせ、一部屋になっているところも、兵隊たちが障子をこわしてしまったので、開けっ放しでした。
 女たちはそれを嫌がりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって面白がって口笛を吹いたり、声をかけたりして楽しんでいました。
 ひとりの男が中にはいると、あとの列が、ひとつづつ前へ進みます。
 まるで配給の順番でも待っているようでした。
 その列が廊下にあふれ、玄関に延び、ときには表の通りまで続くときもありました。
 私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間をかけまわって、用をたしました。
 気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるかわからなかったのです。
 接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、私もしまいには神経が太くなってしまって、接吻なぞ何度もされました。なにしろ、右を向いても左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。

 ひどい目にあったのは、募集で集まってきた女の人でしょう。みんな素人の娘さんたちなのです。
 はじめての日に処女をやぶられて、一晩にひとりの男の相手をするだけでも、心が潰れるほどのことだったでしょうに、毎日昼となく夜となく、一日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。
 素人の女ですから、要領というものを知りません。
 はげしく扱われれば、正直に女の哀しさを見せてしまいます。それではたまったものではありません。
 たちまち別人のようになって、食事もろくにとれず、腰の抜けた病人のようになってしまう人が多かったのです。
 どうしてこんなアシュラのようなところから、みんな逃げ出さなかったのか不思議に思うのですが、逃げようにも逃げる気力さえなくなっていたのかもしれません。
 どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。
 それを聞いていると、日本の女が、戦勝国の兵隊の蹂躙にまかせられているという気がしみじみとしました。
 それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの縮図でした。見本でした。
 私たち女中のなかからも犠牲者が出ました。
 よっちゃんという19の子は、布団部屋にはいったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかでイヤがるのを無理に輪姦されて、
 「お姉さん、あたし・・・」と私に泣きついてきました。
 傷口を洗ってやりましたが、裂傷を負っていました。
 「わたし、好きな人がいたの。こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!」
 そういって、翌日から慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。
 しかしこの子は、もともとそういうことが好きだったらしく、それに外人の体がめずからしく良かったのでしょう。 復讐どころではなく、何人のお客を迎えても、鼻歌交じりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。
 一日に60人のお客をとったという女が表れたのも、その頃の話です。
 そのときはペイディ(ねず注:給料日)で、朝から横になったきりで、食事も寝ながらとるという調子だったそうです。
 その女性は、もうそれっきり立てなくなって、病院に送られましたが、すぐ死にました。精根を使い果たしたのだと思います。

 そんな毎日が続いても、お客はあとからあとから増えるばかりで、収拾のつなかい混乱におちいってしまいました。
 女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも使い物にならなくなれば困ります。
 ご主人は、銀座のRAAに応援を求めました。
 RAAの方では、はじめの失敗に懲りて、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を、補充に30人ほどこっちへ送り込んできました。
 そしてRAAのほうに応募してくる素人の娘さんは、いったん吉原などへ送り、そこで泣いたりわめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。
 こんど来た人たちは、何といっても、そういうことには慣れている人たちですから、一晩に10人や20人のお客をとるのは平気です。

 「それでもねぇ、やっぱりなんだかヘンよ。体が違うでしょ? それに言葉は通じないし、おまけに向こうでは、女のご機嫌をとろうと思って、いろんなことをしてくるでしょ? こっちはなまじっか、そんなことされないで、早く切り上げてくれた方がいいと思うんだけど・・」などと、くわえタバコで、私たちに、そんなことを打ち明ける人もいるほど、なれていました。
 この人たちが来てからは、だいぶうまくいくようになり、兵隊同士のケンカや女中の犠牲者たちも少なくなりました。
 はじめにきた30人の女の人は、その2〜3か月の間に、病気になったり、気が違ったりして、半分ほどになっていました。
 しかしその半分の人も、現在ではきっとひとりも、この世に残っていないと思います。それほどひどかったのです。
 まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまる人たちでした。
 とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い、何も知らない娘さんたちがやったのです。
 そしてボロ布のようになって死んでいったのです。
 そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林と続いて開業しましたので、うちへ入るお客も、自然少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。

 でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがっていくのが、私たちにもわかりました。
 若いお嬢さん風の女の人が、玄関にはいってきて、主人に「働かせてください」と頼むことがありました。
 理由を聞いてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家に帰れないから、というのでした。
 自分から、アメリカ兵に媚を売る女になっていく人も、何人かありました。今思うと、こうしてあの頃、東京中にパンパンなるものが生まれつつあったのですね。
 私はそれから何か月か経って、とうとうアメリカ兵のひとりに犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。体験談は以上です。

 昭和20(1945)年8月15日の終戦の後、RAAという組織が日本におかれました。
 進駐軍を迎えるにあたって、時の東久邇(ひがしくに)内閣が、当時のお金で一億円という巨費を投じて、昭和20(1945)年8月22日に設置した組織です。

 第一号店が開設されたのは、マッカーサーが厚木飛行場に降り立った日より2日早い、昭和20(1945)年8月28日のことです。
 指定されたのは東京・品川の大森海岸の駅前の老舗料理屋であった「小町園」です。