"人間と性"懇談室8月例会 感想と報告

                                                    2019年8月14日

    原水爆禁止運動・前史 ―始まりは占領下  

                   話題提供青木 清

● レジメ報告後の話し合い

  レジメの報告は、今まで聞いたことがなかったものばかりであったため、写真を含めたレジメを丁寧に聞くことに時間が費やされ、話し合いはほとんどされなかった。

 

● レジメ (写真などの資料は掲載できないので、文章のみ掲載)

 

原水爆禁止運動・前史 ―始まりは占領下

 ● 「占領下の原爆展」京大同好会が10日間で3万人を

 「我が国において核兵器廃絶動が本当に国民的な規模でさかんいなったのは、”ビキニ“以来のことであったと思う。

 それ以前の運動は、国民全体のものであったというよりも、むしろ先駆的な動きと言える性格のものであった。それは熱意と勇気のある人たちの運動であり、その意味において京大同好会が1951年に原爆展をおこない、地味な形でおし進めて行ったことは立派だと思う。

 「この先駆者的な意義を持ち、しかも地味で目立たぬ一つ一つの努力の積み重ねが、”ビキニ“以後の全国的な運動を促進し、つよめるものとなったといえるだろう。」 湯川秀樹

 この「総合原爆展」は占領下、京都丸物デパートで一般市民を対象に開かれたもので、これを主催した学生たち京大同好会は1960年の世界平和会議で「平和賞」を受けています。上記の文章はその時のものです。

 総合原爆展は、スチール展をはじめ「原爆の図」パネル、原爆瓦、溶けたガラス、その他標本データ類などの展示が行われ、スチール展はその後、京都近郊の街頭や中学、高校で実施され、北海道各地、最終は横浜市授業員労組の主催でした。

 総合原爆展は、スチール展をはじめ「原爆の図」パネル、原爆瓦、溶けたガラス、その他標本データ類などの展示が行われ、スチール展はその後、京都近郊の街頭や中学、高校で実施され、北海道各地、最終は横浜市授業員労組の主催でした。

 GHQの指示で禁止された広島平和記念式典

 1950年8月6日、1947年から行われてきた広島市主催の式典は、ストックホルムアッピールなどで国際的にも反核運動が盛り上がる中で、朝鮮戦争がはじまり、核の使用も考えていたアメリカの意向で、広島市平和式典が禁止されました。

 峠三吉「原爆詩集」。この詩集の中に「一九五〇年の八月六日平和式典が禁止され」という詩があります。

 プレスコードとは ―市民の手紙も開封。                       

 太平洋戦争終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則です。これにより検閲が実行されました。このプレスコードに基づいて、主にGHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分にされました。また、占領後期になってからは、個人的な手紙などにも検閲の手が回り、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され検閲をうけていました。さらに電信や電話も盗聴されました。

 

● 占領下の原爆関係文献                                 

  栗原貞子の詩「生ましめん哉」1946年3月「中国文化」に発表。                 

  永井隆の随筆『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていましたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により出版許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社から出版されました。                        

 正田篠江「さんげ」1947年発行 「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の銘文として「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」が刻まれました。

 これは歌集「さんげ」の一首ですが、この歌集はGHQの検問を逃れ、「ひろけい印刷所」(広島刑務所印刷所)で150部印刷されました。この歌集の発行に「死刑も覚悟した」と正田篠江は述べています。  

 丸木・赤松俊子「ピカドン」 初版は1950年8月6日、ポツダム書店より刊行。この絵本は刊行直後、GHQのプレスコード規制により事後検閲という形で発行禁止処分となり、その際押収された原画も紛失しました。       

  峠三吉の「原爆詩集」1951年発行、この詩集の中に「一九五〇年の八月六日平和式典が禁止され」という詩があります。

 ● 『長崎の鐘』は何故?―「神が与えた試練であり、神に感謝」                           

 長崎医科大学助教授だった永井隆が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いています。永井はこの時被爆した妻を亡くしました。  1949年1月、日比谷出版社から出版された「長崎の鐘」は、当時としては空前のベストセラーとなり、同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で同書をモチーフとした歌謡曲が発売され大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化されました。

 1949年はどんな時代だったか。―占領政策の変化。

◎下山事件(7月5日)・三鷹事件(7月15日)・松川事件(8月17日

◎ソ連第1回核実験(8月29日)

 前年の反共の傾向の強い「アメリカ対日協議会」を受けて、東西冷戦激化も背景となって、それまでの民主化政策の普及から防共の砦へと占領政策が転換されました。

 翌1950年には朝鮮戦争がはじまり、共産主義の思想・運動・政党に関係している者を公職や企業から追放するレッドパージが行われ、GHQの指令により1万数千人が追放されました。

  利用された「長崎の鐘」

 永井隆医師は信仰の厚いクリスチャンでしたが、同時に反共主義者でもありました。そのため「ソ連の侵攻を止めるためにも戦争を早く終わらせなければならず、原爆使用はやむをえなっかった」いわゆる原爆受忍論を唱えていました。「神が与えた試練であり、神に感謝」これが利用されたのです。

  アサヒグラフ 1952年8月6日号 −原爆被害の初公開            

 1952年4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し、GHQによって布かれていたプレス・コードが解かれました。アサヒグラフの1952年8月6日号は「原爆被害の初公開」とタイトルされ、初めて日本国民に広島・長崎の両原爆の惨状を知らしめることとなりました。

 ● 第五福竜丸事件

 1954年3月1日,南太平洋ビキニ環礁で米国が行った水爆実験のため,200km離れた水域で操業中の焼津港所属の漁船第五福竜丸が放射性物質を含む灰(死の灰)をかぶりました。

このことを報じた9月16日の読売新聞から世論の関心が高まり、全乗組員が放射能症にかかって9月には久保山愛吉さんが死亡したことなどが、原水爆禁止運動発展の契機となります。

 

 ● 第1回原水爆禁止世界大会―圧倒的な世論の盛り上がりの中で

 核兵器に反対する民衆運動は、1950年「ストックホルム・アピール」が世界4億 7000万人の署名を集めてその端緒を開き、54年3月1日,アメリカのビキニ環礁水爆実験によって『第五福竜丸』が被害を受けると,東京杉並区の主婦によるアピールと広島の各種団体による署名運動をきっかけに,運動の規模が広がり 55年8月6日,広島の第1回原水爆禁止世界大会までに 3000万人の署名が集りました。大会後生れた原水爆禁止日本協議会 (原水協) により毎年世界大会が開かれることになりました。