"人間と性"懇談室10月例会 感想と報告

                                                    2019年10月9日

    天皇制を考える 女性天皇はありですか?  

                   話題提供青木 清

 

  ● レジメに基づく解説と話し合い

 

 

 ● レジメ

 

   「天皇制を考える。女性天皇はありですか?」

                                            話題提供 青木 清

 日本の歴代天皇には、8人10代の女性天皇(女帝)がいた。推古、皇極(斉明)、持統、孝謙(称徳),元明、元正、明正、後桜町天皇たちは『女帝は中継ぎの役割だった』と片づけられないほど古代の女帝は活躍している。

(15代天皇説)神功皇后(4世紀) 第14代天皇仲哀天皇皇后初めての摂政とされ、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は渡来人新羅王子天日矛(あめのひぼこ)仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済高麗をも服属させる三韓征伐。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。摂政となり誉田別尊を太子とした。誉田別尊(応神天皇)が即位するまで政事を執り行い聖母とも呼ばれる。                                                                                                                                                                                  

第33代 推古天皇 欽明天皇の皇女。母は蘇我堅塩媛(きたしひめ)。敏達(びだつ)天皇の皇后となる。592年崇峻天皇蘇我馬子に殺されると蘇我氏の出として擁立されて即位し,628年まで在位。甥の聖徳太子摂政とした。            

 遣隋使 聖徳太子が中国の派遣した使節。第2回は小野妹子大使として派遣。国書には「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」とあった。

                         

第35代 皇極天皇 敏達天皇曾孫。夫で叔父の舒明天皇の崩御後、後継の有力候補に対立があったことから、各勢力の妥協案として、皇后から天皇となる。皇太子は立てなかった。皇極4年乙巳(いっし)の変により、蘇我入鹿も含め蘇我氏本宗家が滅亡。この政変により、同母弟の軽皇子(第36代孝徳天皇)に譲位した(初の譲位。孝徳天皇は、皇極天皇の子で乙巳の変の首謀者であった中大兄皇子を皇太子にした。                                  

  大化改新 皇極4(645)年に中大兄皇子天智天皇),中臣鎌足藤原鎌足)らが蘇我入鹿蘇我蝦夷を倒して権力を握ったクーデターおよびそれに続いて行なわれた政治上の大改革。翌 6月14日には孝徳天皇が即位し,中大兄皇子が皇太子として実権を握った。6月19日初の元号「大化」が定められた。

                                      

第37代 斉明天皇 孝徳天皇の崩御の前年から、皇太子・中大兄皇子との不和が表面化しており、次期天皇への即位は皇位の強奪に見える恐れがあったため、前天皇である再び皇祖母尊(皇極天皇)が第37代斉明天皇として62歳で即位した(重祚)。即位した斉明天皇は、全権を皇太子・中大兄皇子に委任した。斉明天皇はそのまま崩御するまで即位し続けた。        

  白村江の戦 朝鮮半島では、新羅・高句麗・百済の3つの国がお互いにしのぎをけずるが、新羅に唐と組まれては完全なる挟み撃ちの形になり、百済はあっさり滅亡。
 そして百済から、沢山の亡命者がやってきて朝廷に、日本にいる百済王子・豊璋を担いで百済再興への助けを求めた。議論の末、唐と新羅を敵にまわして戦う事を決意した朝廷は660年の正月に斉明天皇自ら軍船に乗り攻撃の拠点となる九州へ出発た。「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」額田の王。                         

  しかし、半年後に斉明天皇が亡くなり、中大兄皇子が皇太子の立場のまま、軍の様子を見守ることになる。まずは阿部比羅夫が豊璋とともに朝鮮半島へ向かい、現地の百済の生き残りと合流。百済再興軍として、唐の水軍とあいまみえる白村江へ突入するが敗退。

                                                  

第41代 持統天皇 天智天皇の第2皇女,母は蘇我遠智娘 (おちのいらつめ) 。斉明3 (657) 年大海人皇子 (→天武天皇 ) の妃となり,皇子に従って吉野に入り,壬申の乱にあたっても皇子と行動をともにした。朱鳥1 (686) 年天武天皇崩御後朝政をとった。持統3 (689) 年4月皇太子草壁皇子が死亡したため,同4年正月即位し,長庶子高市 (たけち) 皇子を太政大臣とした。同8年 12月藤原宮に遷御し,同 10年に高市皇子が死亡すると,翌年2月草壁皇子の子軽皇子を皇太子として,同8月位を譲り,太上天皇と称した。これは太上天皇号の初めである。

第 43代 元明天皇 奈良朝第1代の女帝。名は阿閇 (あべ) 。天智天皇の第4皇女。母は蘇我姪娘 (そがのめいいらつめ) 。天武天皇の皇太子草壁皇子の妃となり氷高皇女 (→元正天皇 ) ,軽皇子 (→文武天皇 ) を産んだ。草壁皇子,文武天皇が夭折し,その皇子 (のちの聖武天皇) が幼少であったため即位した。おもな事績は,和銅1 (708) 年の和同開珎鋳造,同3年の平城京遷都。同5年の『古事記』,および翌年の風土記編纂などである。                  

第 44代 元正天皇 奈良時代の女帝。父は草壁(くさかべ)皇子,母は元明天皇。715年皇太子首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)が幼年のため,元明天皇の譲りを受けて未婚のまま即位。養老律令の編纂,隼人の反乱,《日本書紀》の撰進などがあった。                          

第46代 孝謙天皇 奈良時代後期の天皇。聖武天皇の皇女で母は光明(こうみょう)皇后。749年即位。752年東大寺大仏の開眼供養を行う。758年淳仁天皇に譲位。道鏡を寵愛(ちょうあい)して淳仁天皇と不和となり,太政大臣になったいとこの藤原仲麻呂が764年に兵を起こすとこれを打破(恵美押勝(えみのおしかつ)の乱),淳仁天皇を廃し重祚(ちょうそ)し称徳天皇(764年?770年)となる。その治世は道鏡の全盛期で,769年彼は皇位を望んだが和気清麻呂に退けられた。                      

第48代 称徳天皇 天平宝字(てんぴょうほうじ)8年孝謙上皇は,藤原仲麻呂(なかまろ)の乱を機に淳仁(じゅんにん)天皇を廃して重祚(ちょうそ)。仏教に帰依(きえ)して道鏡を信任重用し,太政大臣禅師から法王と,天皇につぐ権力と処遇をあたえた。

第109代 明正天皇 1624*−1696 江戸時代前期,元和(げんな)9年11月19日生まれ。後水尾天皇の第2皇女。母は徳川和子(東福門院)。父の譲位により7歳で即位。父が院政をおこなう。称徳天皇以来の女帝で,将軍徳川秀忠の孫。21歳で異母弟の後光明天皇に譲位。元禄9年11月10日死去。74歳。奈良時代の女帝元明(げんめい)・元正(げんしょう)天皇から各1字をとって諡(おくりな)とされた。

,117代 後桜町天皇 17401813 江戸時代中期天皇。元文583日生まれ。桜町天皇の第2皇女。母は藤原舎子(いえこ)(青綺門院)。桃園天皇の異母姉。桃園天皇の死後,皇嗣英仁(ひでひと)親王(のちの後桃園天皇)が幼少だったため皇位をついだ。最後の女帝。在位中,幕府による尊王家弾圧の明和事件がおきた。譲位後は後桃園・光格の2天皇を訓育。和歌や漢学をこのんだ。

 大宝律令(701年)による天皇の后=◎ 皇后、◎ (ひ/きさき) - 2名以内、四品以上の内親王 ◎夫人(ぶにん/おおとじ) - 3名以内、三位以上(公卿)の娘 ◎嬪(ひん/みめ) - 4名以内、五位以上(貴族または豪族)の娘  皇室以外の皇后=光明皇后(藤原氏)729年聖武天皇の皇后となる。             

 禁中並公家諸法度江戸幕府の対朝廷・公家規制政策の基本法令。全一七条。615年発令。以後、幕末まで改訂されなかった。

 皇室典範皇室に関する基本法典。(1) 大日本帝国憲法下で憲法と並んで日本の根幹をなす法典とみなされ,憲法とともに 1889年2月11日に制定されたもの。皇室自律主義のたてまえから,その制定,改正には国民や帝国議会は一切関与できないものとされた。                      

 (2) 昭和22年法律3号。1947年1月16日に制定されたもの。日本国憲法自体が皇室典範という名称を使っている(2条)ことから旧憲法下と同じくその名称が使用されているが,性格は通常の法律とまったく同一であって,国会が自由にこれを改廃できる。皇位継承の資格、順序皇族摂政等について定める 37ヵ条によって構成されている。