"人間と性"懇談室4月例会 感想と報告
2015年4月22日
「高群逸枝を知っていますか」
話題提供:青木 清
★ レジメ補足・質疑・意見
高群逸枝は、近代日本で、女性思想家の出発点としての、大きな役割を果たしたひとりである。平塚らいてうと二人の思想家と言われているが、二人だけではなく、他にも女性思想家はいる。しかし、代表的なふたりのうちのひとりであることは間違いない。
飛鳥・奈良時代の婚姻では、父親が同じ兄弟姉妹は結婚できたが、同じ母親の場合は、結婚できなかった。母系が強かった。
平安時代までは、夫婦間は対等と考えられる。武家社会になってから、夫が支配するように変化した。
中世頃までは、結婚、離婚については、おおらかだった。
武家社会の「嫁入婚」に変わってからの儀礼が、現代まで残されている。結納はその一つと考えられる。
高群は古代の女性の地位が確立されていたことを強調するあまり、資料が偏っていたとの批判がある。
彼女は、女性活動家・研究者としての立場が確立されていないが、かなり力のある存在ではあった。無名のままでなく、再評価されるべきではないかと思う。
評価されるべき人が評価されない理由は、集団に属さなかったからではないかと考えられる。学閥のある中で、在野の研究者は評価されにくい。女性史のなかで知らされていないため、一般的な女性史には名前すら載っていない。
戦争に動員される作家が多かったなか、高群は動員されなかった。戦争中に、招婿婚の研究などを書き上げた。軍国史観の時代に、夫の援助で膨大な女性史の研究書を書き上げたのは、力があったからだと考えられる。
戦前の女性問題を考えるとき、天皇家の問題が出てくる。高群には、天皇制国家と女性の項目がある。天皇家を突き放して見ている。
古代の天皇は婿に入ったのではないか。女性が天皇の血を引き、男性は婿に入った。女系で繋がっているのが真実ではないか。との説をとなえた。戦前はオフリミットで、戦後やっと日の目を見た。
女性史の草分け的存在が高群である。
★ 話題提供者レジメ
高群逸枝を知っていますか」 青木 清
近代日本で、女性―人間の解放を構想した女性の思想家が二人います。一人は平塚らいてう。今一人は、女性史という分野を創り出した高群逸枝です。しかし、平塚らいてうは誰でも知っているのに、高群については知られていません。
「原始女性は太陽であった」この言葉を更に発展させようと心血を注いだ彼女の功績に改めて敬意を表し、 前坂俊之先生(静岡県立大学国際関係学部教授)の研究からその生涯を紹介します。
そして、武蔵野の一隅にあって、夫の献身と20年余をかけて始めてなしえた、女の生活の歴史的復権の書「女性の歴史」から、日本の結婚の歴史の一部を学習します。
婚姻の歴史
◎ 日本に置いて妻問婚は、飛鳥・奈良時代に先立つ古墳時代に一般的であったと考えられている。妻と夫はそれぞれの氏族で居住し、妻の財産は妻方の氏族が、夫の財産は夫方の氏族が管理した。求婚は「ヨバヒ」といい、女が許せばその場で結婚が成立した。ヨバヒには戸口などから女を呼ぶだけといった形から、歌の贈答を経るものもあったらし い。族長クラスになると媒が入ることもあったが、基本的には本人同士が気に入るかどうかであった。結婚が成立した後、女がオヤ(族長)に告げ、認められれば公式の婚姻となる。
◎ 子の養育は母の一族が行うものであり、夫方の一族が介入することはできなかった。離婚も簡単で、夫が妻方に通わなくなったら「床去り」「夜離れ」と いって離婚となった。また通ってきた夫を妻が返してしまえばやはり離婚となった。従って、何らの宣言も届け出もない古代の離婚は大変あいまいなものであっ た。そのような状況なので一夫多妻はもとより多夫多妻となる婚姻も珍しくなかったらしい。
◎ この妻問婚が、夫が妻の家に同居することで「招婿婚」(婿入婚)となるわけで、この形式は貴族社会を中心にして伝統的に行われてきたのであるが、鎌倉時代に入り武士の勢力が顕著になってくるに従って、「嫁入婚」 に変わっていった。またこの時代には武家のための儀礼が確立され、現代まで残されている作法の原点となっている。
◎ 高群逸枝は次のように述べています。
「ヤマトタケルの婚姻が一夫多妻にみえるのは、エンゲルスがイロクォイにみている多妻傾向と同じ段階のもので、この段階での多妻は群婚の自由化、または変更であって、―畜妾的な、男に飼われる妻たちではない―。 平安・鎌倉で妻たちは、ほとんどが自族の保障や私産、職業等で自活しており、原則として夫に依存していない」
●古代社会から近世までに、母系→父母系併存→父系へと移り変わる中で、国家が成立し、氏族支配から家父長権をもった家族制度へと移行した。
「妻問→婿取も、渡来人が氏族再興のために父系婚姻様式を日本の母系婚姻様式に接木してきました。特に渡来人が大半を占める上流階級では(天皇家や藤原家がそうであったように)大した経過も無く父系的であったようです。
高群氏にも、この様な意識が余り無いので、居所の所在や通いなどの形態にばかり固執するようですが、婚姻を様式化するには相応の必然性があり、この時代には天皇制や貴族社会の構築などのために婚姻を利用する必然性があったと考えた方が良いように思います」。という意見もあります。
そして社会主義=財産の主要部分である生産手段の私的所有の廃止によって、財産の相続を目的にした一夫一婦制の基礎は消滅すると主張した。
プナルア婚=自己の配偶者がそのキョウダイと性関係を持つことを容認する家族形態。
高群逸枝
前坂俊之. (静岡県立大学国際関係学部 教授)
女性史研究家・詩人 〜夫(橋本憲三)と歩んだ火の国の女
出生 1884(明治27)年1月18日、熊本県下益城郡豊川村南豊崎(現・松橋町寄田)に小学校長の長女として誕生。本名イツエ。田舎の豊かな自然の中で父に漢籍の手ほどきを受けて育つ。
履歴 熊本女学校4年修了(1913)、女工を経験した後、代用教員となる。
限界を感じて退職、新聞記者を志すが失敗。四国巡礼に出発、九州日日新聞に「娘巡礼記」連載。橋本憲三と婚約、紆余曲折、死産も経験した後、新世帯をもって一時期家事と売文に追われたが、1928年頃から無政府主義者として盛んに論争。1931年、一転して研究生活に入り、夫の全面的な協力と平塚らいてうらの「高群逸枝著作後援会」に支えられて民間学者として女性史研究に打ち込んだ。
事績 詩人の才能を生田長江に認められ、『日月の上に』をはじめ多くの詩を世に出し評判となった。女性史研究家としての最初の成果は『大日本女性人名辞書』(1936)。膨大な文献を基に研究を続け、5巻構想の「大日本女性史」の第一、第二として『母系制の研究』(1938)、『招婿婚の研究』(1953)を刊行。後に『女性の歴史』(1954-8)をこの構想の通史部分にあてた。
評価 逸枝の研究開始の意味を鹿野政直は三点挙げている。
@日本初の本格的「女性史学」だった点。
A専門教育を受けない女性による「民間学」だった点。
B直輸入的性格を脱する「日本の学問」を目指した点。
その後高群婚姻史は村上信彦らにより受容されたが、洞富雄、鷲見等曜らに誤りを指摘・批判され、更に栗原弘はそれが「女性のための歴史」を書く意図的な誤謬だったとする研究を発表。上野千鶴子はこれらを踏まえて歴史学の政治性についての教訓を引き出している。
代表作『母系制の研究』逸枝は、古代の系譜で同じ家名の者が別の祖先の名を持っている場合(一氏多祖)、全く別の家なのではなく、家が「母を中心として形成される親族制度」でありその家の代々の相続者の婿たちが各々の祖先を祖名として名乗っていたのだと考える。こうしたテーマは戦争に突き進む時代下で神秘的な皇国史観を植えつけたい当局にとって危険とされ、「母系制」をタイトルに持つ本書は同郷の徳富蘇峰(体制派)の序文により辛くも発禁を免れた。全集第1巻に収録。
『招婿婚の研究』 嫁取婚以前の婿取婚の存在を実証しようとした労作。全集第2〜3巻婦人戦線 逸枝は弱者の解放のためには社会全体を変える必要があると考え、アナキストの立場で論争を重ねた。
1930年3月、夫の勧めにより「第二の青鞜」として無産婦人芸術連盟の月刊誌「婦人戦線」を発刊したが、翌年6月に廃刊、7月に転居して「面会謝絶」の研究生活に入った。
夫婦関係を大きく変えたのが1925年の家出事件。新居に夫の仲間が次々押しかけ、家事、家計維持のための売文、夫の叱責に疲れた逸枝は家を出、保護された。以後夫は妻を支える生活を決意し、後年の研究生活は文字通り夫婦の協同作業となった。また、長時間の勉強で、服の窓側にあたるほうだけが日に焼けたというエピソード、仮説を組み直したことにより無意味な記述と気づいたとして2年にわたって採集した調査カードを全て破棄したエピソードも有名。
最期 1964年6月7日、癌性腹膜炎のため国立東京第二病院で死去。享年70歳。