"人間と性"懇談室10月例会 感想と報告
2014年10月22日
「満蒙開拓を夢見て」
話題提供:矢口 實
★ 話題提供者レジメ
はじめに
私は話の専門家でないので下手です。また、私の話は満蒙開拓事業の一部分でしかありません。戦後69年も経っているので、皆さんは話や文書で充分に知っていると思います。足りない点はご容赦下さい。
私はこの満蒙開拓事業が中国(旧満州)の人々を苦しめる侵略と植民地支配の国家的事業であったことも知りませんでした。
1945年8月、日本が世界の平和と民主勢力、連合国の側に敗北したことで、日本の犯した平和と人権侵害の罪に知ることが出来ました。
私はこのような加害国の一人として侵略と植民地支配の側に居て、旧満州の人々を苦しめたことに心から謝罪するものです。再びこのような戦争と侵略が起きないよう反省し、日中友好運動、世界平和運動、なによりも9条を要とする日本国憲法の精神を実行することが反省の証として心に刻み、取り組んでいるところです。
何故、満蒙開拓事業に参加したか
「青年よ大志を抱け」の有名な言葉に励まされ、何か大きな仕事につきたいと思っていました。当時、軍国主義がはびこり大陸進出が大々的に叫ばれていました。八紘一宇、大東亜共栄圏、東洋平和、五国協和など。
特に満蒙開拓は10町歩の土地が与えられることには心を動かされました。また、教師の熱烈なすすめ方があり、同級生40名の中で6名も志願したのです。
私もその中の一人として、14才2カ月で当時の国策であった満蒙開拓少年義勇軍として満蒙開拓事業に参加しました。しかし、父は「男だからその位のことはやれ」と許してくれましたが、母は「そんな遠いところへは行くな」として最後まで許してくれませんでした。
満蒙開拓少年義勇軍は何故できたか
日本は中国アジア太平洋地域への15年戦争だけでなく、明治以来一貫して近隣諸国への侵略と植民地膨張の「富国強兵」政策を続けてきた。台湾出兵以来70年もそれを実行したのです。
1874年(明治7)台湾出兵
1894年(明治27〜28)日清戦争
1904年(明治37〜38)日露戦争
1914年(大正3)第一次大戦(シベリヤ出兵)
1931年(昭和6)満州事変
1932年(昭和7)上海事変
1937年(昭和12)支那事変(日中戦争)
1941年(昭和16)大東亜戦争(太平洋戦争)
このひとつひとつに特徴をもった戦争であったが、そのすべてに整理、清算することなしには、アジア諸国と真の信頼を回復し、友好を深めることは出来ないと思う。
特にシベリア抑留の過酷さを問題にするが、シベリア出兵で日本がどんなひどいことをしたかあまり知られていない。
拉致問題は大々的に知らされるが、中国人、朝鮮人、韓国人への植民地支配下での待遇や、強制連行の実態、従軍慰安婦の「性ドレイ」問題など充分に知らされてない。
旧満州からの引揚げの悲惨な実態は語られるが、満洲国時代日本国支配下での住民への残虐な実態については語られない。
これらの被害だけでなく加害の実態について知ることが、友好関係を結ぶためには絶対必要である。
現在の中国で「満州」という文字は死語に等しい。満州というのは、清朝時代(1616〜1912年)中国の東北部三省(遼寧・吉林・黒龍)の総称としてつかわれていた。
日本が「満州」に関わりあうのは日清戦争からです。朝鮮支配の覇権をめぐって起こした戦争で日本が勝利し、」その代価として清国の領土であった台湾と旅順などを割譲させたものです。
ところがロシア、フランス、ドイツの三国の厳重抗議(三国干渉)で遼東半島を還付せざるを得なかった。その遼東半島の領土拡張を目指すロシアが清国から強引に租借し、旅順一帯に強固な軍事基地を築き、さらに兵力を増やし、満州全土を占領し居座ったのです。
ここで朝鮮支配に危機感をもった日本との間に起こったのが日露戦争であった。戦争は日本が勝利し、ロシアが租借していた遼東半島の南端「南満州」とロシア経営の後で満鉄となった鉄道を手に入れ、満洲植民地化の有力な手段としました。
その南満州の鉄道守備を目的として作られたのが関東軍であった。この部隊が段々と大きくなり、独立した戦闘集団となり日本本土の中央政府を無視して独走を始めました。この出先の部隊が鉄道爆破の謀略事件(柳条溝・柳条湖事件1931年)を起こし「この爆破は中国軍隊がやった」と口実にして満州全土を占領(満州事変)。
この現地部隊「関東軍」によって「満州国」が1932年つくられたのです。その国王が清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらん・ふぎ)でした。こうしてつくられた日本の傀儡国家「満州国」を「王道楽土」五族協和」などと独立国家の形をとったものの「満州皇帝は天皇につかえ天皇の大御心をもって心とする」とされる植民地国家が誕生したのです。
こんな独立国はありません。」
満州国開拓の歴史
日本は日清、日露の戦争で血を流して勝ちとった満蒙の権益を「我が生命線」であると位置づけ、これを守ることは「自存自衛」だとして侵略の鉾先を中国全土に拡大していくのです。
日本は侵略事件を起こして満州を乗取り満州国をつくり、これを永久占領し植民地にして日本化するため、大規模な移民活動を行って行くのです。それは大体3つの段階を得て実施されました。
第一段階 1932〜1936年(昭和7〜11年)
組織的計画的な試験移民の時期です。
この間、武装した農民の移民は主に治安維持の役割、関東軍の現地人民による「抗日闘争」鎮圧を助ける役割をもった段階です。
第二段階1937〜1941年(昭和12〜16年)
大規模移民の時期です。
関東軍は1936年5月「満州農業移民100万戸移住計画案」を作成。日本政府はこれを受け、広田内閣7つの政策の1つとして8月「20ヶ年100万個移住計画」として閣議決定し、1937年(昭和12年)から実施することになったのです。
しかし、1937年度の移民実績はふるわず目標達成は困難となってきた。その原因は日中戦争による応召で成人男子が不足してきたことであった。
関東はこの事態を憂慮し、対ソ防衛面や満州国内の治安維持、拡大しつつある日中戦争の兵站基地獲得のためにも農業移民100万計画達成は絶対必要な課題でした。
このような背景のもとで満蒙開拓青少年義勇軍制度の創設となったのです。(義勇軍制度は別項で)
中央政府拓務省も「満州の人口3000万人、20年後は5000万人に達する。その時、日本人移民100万戸500万人となる。満州国の1割となる。満州国に「大和民族」を指導的中核とする植民地秩序をつくり上げるためにはこの実行がどうしても必要である」とその目的を明らかにした。
第3段階1941年〜以降(昭和16年以降)
日中戦争は拡大し、太平洋戦争が始まると日本の青壮年の応召が増加し、軍需工業も拡大し農村の労働力の余剰がなくなってきた。移民の人口が枯れ始めてきました。そのほか、関東軍が南方戦線に動員され開拓移民団員の応召も増え、開拓団の男子比率は1割前後に縮小していた。それも老人、病弱者であったのです。もはや移民政策は事実上崩壊しはじめ衰退していったのです。
開拓移民の態度
1、開拓地の略奪
移民の用地は安く「買収」か関東軍が強制的に奪ったものである。土地を失った現地農民は、人里離れた山野に追いやられ荒地を開墾させられていた。現地に残った少数の農民は、日本人移民の小作人や作男にならざるを得ませんでした。
2、日本人移民の経営スローガン
経営は4大スローガンを揚げて実施されました。
自作農主義・ 自給自足主義
集団的経営主義・農牧混合主義
しかし、この経営は実現困難であった。それは日本人移民は、普通10町歩(10ヘクタール)の土地を手に入れました。だが、その土地の性質や耕作方法が日本と違い、労働力の不足もあって広い土地を経営することは不可能であった。
そのため大部分の土地を現地の満州人に小作させ、日本人は地主として振舞ったのである。一部の農民は自身で耕作したが、多くの開拓民は満州人を作男、日雇い、月雇として耕作させたのです。
3、日本人移民の加害と被害
日本人移民の大多数は、貧しい農民や社会の底辺の勤労者が多かった。だが、当時の植民地支配の環境下では、満洲の人々を支配することで一種の優越感を持っていた。一部の移民者は、現地の農民を同等の人間として扱い正常なつきあいや往来もし、平和に過ごしていた。しかし、日本人は実力で中国(満州)の農民を土地や家屋を奪い、使役に使うなど日本軍国主義の道具にほかならなかった。
だが、日本人移民も日本帝国主義の侵略と戦争の被害者であった。大多数の移民は、生活に追われるなかで騙されて満州にやってきた者であった。戦争末期、男子の青壮年は次々と応召され、残されたものは女性と子ども、老人、病弱者であった。とても「王道楽土」などではありませんでした。
1945年8月日本は敗戦。降伏するが、関東軍は日本人移民を助けることをせず遺棄したのである。日本の軍隊は日本国民を守る任務も責任もないことを示したものです。そのため大量の死傷者を生み出し、日本侵略戦争は日本国民もその犠牲者となったということです。
満州開拓の歴史は、一言でいうなら関東軍の武力によって誕生し育てられ、最後は捨てられたということです。
私たちのたどった開拓事業の足跡
1、内原訓練所
この訓練所は茨城県水戸市の近くの内原という田園地帯にありました。
私はこの訓練所に1940年3月12日に入所しました。ここの宿舎はすべて日輪兵舎という丸い建物で出来ていました。1つの建物に60名ほどが、2段がまいの宿舎中で食事も寝ることも一緒でした。私は野田中隊320名のグループでした。
所長はアゴ髭を長くのばして有名な加藤完治という人でした。この所長の教訓は3つでした。1、迷うな 2、生水を飲むな 3、仲良くせよ。 この3つの事を事あるごとに主張し説得したものです。この訓練所には8000名が収容されていました。
ここでの日課は、@厳寒での心得(現地満州を意識)A農業実習 B軍事訓練 C集団生活に慣れること。私は約3カ月の訓練を終了後、渡満となります。
1940年6月24日内原駅出発。東京駅下車、宮城参拝後、東海道特別列車で伊勢神宮参拝1泊。
25日京都見学雨のため中止。神戸三宮到着1泊。
26日大阪商船サントス号に乗船。瀬戸内海航行。
27日下関到着1泊
28日〜7月1日三日間で玄界灘通過大連着1泊
2日アジア号乗車、ハルピン着。見学で1泊
3日朝、一面波駅到着、一面波訓練所まで10キロ徒歩。訓練本部(波南郷)到着。
2、一面波訓練所
一面波訓練所は、3つの分所に分かれている約5000人収容の建物があった本部が波南郷、
興隆屯分所、太平溝分所である。私の中隊は興隆屯分所に配属になりました。この分所は8ヶ中隊約2000人収容の建物があり興隆屯大隊と呼んでいた。分所内には医療機関として分院があり医師2人看護婦4人が常駐していた。
ここで新しい村づくりの教育と実習が3年にわたって訓練されるわけです。農業、畜産、園芸、建築、醸造、冷蔵、軍事(冬季1ヶ月程、関東軍兵士が同居して実践訓練をする)
その他
3年間だからいろいろなことがあったが、忘れがたい虐待事件が数件ありました。ひとつは、運動会で負けた腹いせに現地人の宿舎に日本刀を振り廻して数名負傷させたのです。現地の人は運動会には何の関係もないのです。もうひとつは、大車に乗っていた現地の人を発砲してケガさせたことです。その加害者はただ日本に帰されただけで罪を問わなかったというのです。これが植民地的人権無視の対応ということでしょう。(後日、沖縄での米軍の事を思い出す)
3年の訓練が終了して義勇隊開拓団東鳳翔に先遣隊として入植しました。1948年5月のことでした。
3、東鳳翔野州義勇軍開拓団
ゼロからの村建設が始まりました。ここはソ満国境に近い所でした。家づくりのための伐採,農地開墾、道路つくり、軍事訓練などでした。原料輸送で必要な道路が、川にかかった橋が氷解のため瓦壊し通行不能となり、食糧不足でみんなが栄養失調でたいへんあことになったこともありました。開墾では片道3キロもある畑を耕しましたが、白菜や大根の葉を虫に喰われ除虫が間に合わず閉口したことがありました。
10月関東軍入隊が決まったので休暇のため日本に一時帰国し、3年ぶりに故郷の土を踏みました。3ヶ月程して団に帰り、1944年1月10日、佳木斯(チャムス)の独立守備隊に入隊しました。
★ レジメ補足・質疑・感想
・ 人間がどう作られていったのかが分かるレポートだった。
Q 義勇軍として、戦闘には加わったのか。
A 直接戦闘には加わらなかった。
Q 開拓団と、文化活動との関係はどうだったのか。
A 「白蘭の歌」のように、開拓団と李香蘭などとの関係があったようだが、直接には関わっていないので、よく分からない。