"人間と性"懇談室9月例会 感想と報告

                                                    2014年9月24日

再び従軍慰安婦について  

                   話題提供:青木 清

 ★ 話題提供者レジメ

 「再び従軍慰安婦について」

        

 朝日新聞は8月6日、強制連行に関しての1992年

1月12日の社説は、裏付けが得られず虚偽と判断した

という記事を掲載しました。

 これを受けて従軍慰安婦という表現を初めに使ったと

される千田夏光さんの著書「従軍慰安婦」(1973年)を

参考に改めて問題提起をします。

 

従軍慰安婦とは

 「旧軍関係者は、自分たちが従軍慰安婦なる兵隊性欲処理機関をともなって戦地へ赴いていたことを戦中も戦後も秘匿にしてきた。 理由は、神聖なる天皇の軍隊に傷がつく、軍が国家予算で売春宿を経営していたことを一般国民に知られたくない、女性の大半は朝鮮半島から強制動員したがそのことを秘匿にしておきたい、などであった」

 1973年(昭和48年)双葉社より刊行された千田夏光氏の「従軍慰安婦」は、この問題の先駆的なルポとしての存在を示しています。

 その後1982年9月2日の朝日新聞による「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩りだした』」という吉田清冶氏の日本軍による強制連行があったという記事から一気にこの問題が大きくなり、宮沢喜一内閣の元1993年8月4日の「河野官房長談話」へと進展して行きました。

 河野談話では、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍は直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれにあたったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が多くあり、更に、官憲などが直接これに加担したことも明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と述べ、お詫びと反省の言葉を残しています。

 

吉田発言は虚偽

 2014年8月5日、朝日新聞はかねて疑惑のあった吉田発言を虚偽と認める報道と慰安婦問題にかかわる記事を、4面を使い朝刊に記載しました。しかし、誤報についての朝日新聞の謝罪がないことが多くの批判をよびおこし、更に、同紙の連載「新聞ななめ読み」でこの事態を批判した池上彰氏の記事が連載見合せとなり物議をかもしました。結局9月4日には掲載されましたが、週刊誌をはじめ各メデアから激しいバッシングにあっています。

 たしかに済州島では慰安婦の軍による強制連行もなかったことはあきらかのようですが、それだけで河野談話を含めて、すべてがなかったことのように見直されるべきだということにはなりません。

 

従軍慰安婦という名称

 慰安所(娯楽所)、慰安婦という言葉は戦前からあり、慰安婦は主に日本人か朝鮮人からなり、中国戦線へこの人たちが送り込まれたことから「従軍慰安婦」は戦後造られた言葉です。  

 一説によれば中国人女性を使うと内通され軍隊の動きが敵方に知られてしまうからという懸念からそうしたと云われています。(戦線が中国から東南アジアに拡大する中では、中国人・台湾人・フィリィピン人なども慰安婦となります)。世界各地に売春婦や売春宿はありますが、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送について軍が関与した例は日本だけだったこと、前線の移動と共に軍隊に従って慰安所も開設されたことからこの名称が生まれました。

 したがって、この名称が最初からなかったことから慰安婦問題がなかったような発言もあります。

 何故アメリカ軍にはなく日本軍だけなのか?いう疑問もありますが、原則、アメリカ兵の前線勤務は、3カ月で後方基地や本国送還があり、日本兵のように前線に行きっぱなしという事態ではなかったからです。

 

慰安所とは?「陸軍娯楽所規則」

一、入場券ノ料金左ノ如シ。下士官、兵、軍属、金弐円。(月給は上等兵で20円)

一、入場券ヲ買求タル者ハ指定セラレタル番号ノ部屋ニ入ルコト。但シ時間ハ三〇分トス。

  (中略)…以上のように、運営は業者に委託されていてピー屋と言われたが、完全に軍の管理下にあったことは明白です。接客婦は、当初、酌婦と呼ばれたが後に慰安婦となり、チョウセンピーなどと呼ばれていました。

朝鮮人慰安婦募集は

 朝鮮で組織的に女性が集められたのは昭和15年からということですが、警官や憲兵の立ち会いのもとで行われたという証言もこの時期多く出されています。

 軍司令官から朝鮮総督府へ慰安婦を何万人集めて欲しいという依頼があり、最終的には面長(村長)が日本人警官同伴で募集を行ったようです。これは、必ずしも慰安婦だけでなく、軍事工場などへ送り込まれた例もあるようで、「挺身隊」という言葉も出てきます。日本本土の「女子挺身隊」と混同されますが正式な呼び名ではないようです。

 

ある日本人娼婦の証言

「少ない日でも1日10人、多い日は何十人とこなすのだから、3カ月もすると不感症になるのね。私もそうなった。もとも1日40人も50人も相手にするときは床に寝転がって股を開きっぱなし、兵隊の方が勝手に乗っかって行くのだからそれも無理ないわね」

 千田夏光氏の著書には、朝鮮人慰安婦の証言はありません。しかし、この証言からも慰安とは名ばかり、「共同便所」という言葉で表現された実態からも朝鮮人女性の扱いも想像に難くありません。

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侵略戦争の中で殺戮・略奪・強姦が日常化し、兵隊も人間として扱われていません。人格侵害・民族差別・性差別はまだ相手を人間と見ることが前提ですが、「糧ヲ敵ニモトム」という戦略のなかで朝鮮の女性たちも物として扱われた歴史がありました。

                

参考文献:講談社文庫「従軍慰安婦」千田夏光著・昭和59年11月 発行

 

★ 参加者発言概要

 

  「従軍慰安婦」の言葉は千田夏光氏が初めて使った。軍とともに慰安所が移動していたのは日本軍だ   け。

 ・ 慰安所を兵隊のガス抜きに利用したのではないか。