《ホーム》

車椅子からみた性と生

bU

COCO

らしくあるために

 
  私には好きなアーティストがいる。といってもコンサートに行ったことがあるわけでもファンクラブに入っているわけでもないけれど、彼の音楽が好きである。彼の曲が大ヒットした年、私は大学に入学した。まだバブルの名残もありスタイリッシュがもてはやされていた当時、「僕が僕らしくあるために」と歌う彼はあまりにもストレートすぎて流行らないだろうなぁと思った。けれど、なぜか歌詞のひとつひとつに耳を傾けずにはいられなかった。私の予想は大幅に外れ、ゼミの飲み会のカラオケで大合唱するほど、彼の曲は私たちの心をつかんでいった。初めて家族と離れて暮らしたアメリカでも、私は彼の曲を聴いていた。彼のことを「なんか冴えないコだねぇ」と言っていた母が、 CD を送ってくれた。かっこわるくてもいいよと言ってくれているような彼の言葉に慰められ、ベッドの中で聴きながら泣いたりもした。

 

 しばらくして彼は薬物使用で逮捕され、マスコミはさわやかさを売りにしていたのに裏切られたようだとコメントした。私はなんだか自分にも責任があるように感じた。自分らしくありたいと願いながらできないすべての人の代弁者になった彼が、重みに耐えきれずつぶれてしまったように見えたのだ。あなたは最初から自分のために歌っていたのに、私は自分で声をあげることもしないで、あなたが世の中に伝えてくれる言葉によりかかって生きていたよね、と思わずにいられなかった。

 

 それから5年以上経った。私は今、自分の障害について語るような講演などを時折引き受けている。私は不幸じゃありません、権利があると学んだからです、共に生きるってすばらしい・・・などと熱く語ってしまうと、「感動しました」「強いんですね」「励まされました」とコメントをいただく。基本的にはうれしい。自分が誰かのパワーになるなんて素敵なことだから。でも、ちょっと違和感もある。私は自分のことを強いと意識しているわけではないし、お役に立ちたいと思って講演を引き受けているというのともちょっと違うと感じる。過去の恋愛もコンプレックスも不平等への怒りも、全部をエネルギーに転換させて語っている。けっこう大変な作業なのだ。だけど語り続けるのは、それが「私が私らしくあるために」必要なことだからだと思う。誰かに代弁してもらわないこと、それが私のスタイルなのだと思う。

 

 慰められなくてもなんとかやれるようになった私は、彼の曲をベッドで聴かなくなった。運転しながら聞くラジオから彼の曲が流れてくると、懐かしい友だちに会ったような気分になる。他の何にもかえられない、私が私を引き受けるという私らしさの原点と、出会いなおす瞬間である。