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車椅子からみた性と生

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Nature calls a wheelchair?

〜トイレとの闘い〜

 

 『 Nature calls me 』は私が好きな英語のフレーズの一つである。「自然が私を呼んでいる=トイレに行きたい」と訳される。そんな自然の摂理でも、車いすを使っているというだけで、泣き笑いの物語になったりする。

 

 私が子どもだったころには、街には車いすのまま使えるトイレはなかった。学校では先生にトイレ介助をしてもらった。

 多くの障害者と同じように、水分を控えてトイレの回数を調節した。高学年の反抗期には、先生に反発を覚えても「お尻ふいてもらってるくせに」と言われれば何も言い返せないという気持ちから、できる限りはよい子でいた(それでもけっこう反抗的だったけれど)。根っからの負けず嫌いということもあり、女子の友達にトイレに関することをお願いするのも、それなりに屈辱的だった。もちろん弱みを見せたくないような子には絶対頼まなかった。

 それでも、子どもの頃のことはたいしたことではないように感じる。もっと深刻になるのは、やはり恋愛を意識するようになってから。好きな人に移動で抱きかかえてもらったりすることは、ビジュアル的にも『女の子の憧れ・お姫様だっこ』だったら悪くないし、何より正々堂々と触れ合っていられるのだからラッキーと思えても、デートの最中にトイレ介助をお願いする勇気は、そう簡単にはもてなかった。介助の必要のないトイレを探し求めて、あらかじめ女友達とさまざまなレストランを下見し、介助なしで自力で使えるトイレかどうかチェックしてからデートに臨んだ。

 アメリカで暮らすようになり、生まれて初めてトイレを気にしない生活を体験した。どこに行っても車いすのまま使えるトイレはあったし、何よりも嬉しかったのは、障害者用トイレという個別のトイレを使うのではなく、他の女性と同じように女子トイレに入り、大きな車いす用の個室を使うというスタイルに出会えたことだった。

 日本のデパートや少し大きなファミリーレストランが「やさしい街づくり」で障害者用トイレを設置しても、男子、女子、障害者と分けられてあることにいつも違和感を覚えていた。どこまでも「別物」扱い。「車いすの人」という分類。

 そこに分けられた者たちがアイデンティティーの一つとして「ジェンダー」を持っているなんて、きっと想像もしていないに違いない。

 もっと極端に言ってしまえば、障害者が男だろうが女だろうがあんまり大した問題ではないのだろう。

 (蛇足だが、障害者男子用トイレと障害者女子用トイレまであったりすると「気を遣ってくれてありがとう。そこまでしてもあなた達と同じトイレは使わせてくれないかい」と思ってしまう私は少しひねくれているかなぁ・・・)

  アメリカで『 WOMEN 』と掲示されているトイレに入りメイクを直す−それは私にとっては思わず胸を張りたくなるくらい誇らしくて素敵な行為だった。きっと自分の性と生を尊ぶことは、こういう毎日のありふれた行為にきちんとプライドを持つことの積み重ねなのではないか。たかがトイレされどトイレ。私の性と生の出発点かもしれない。