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徒 然 日 記

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岡崎智久

特別な人間その1

 2012.8.26
 

 さて、前回お伝えしたように「特別な人間」についてお話しします。

 特別な人間、と言うのは世界的な宗教の教祖だとか、或いは雷電のような伝説的な力士の話では無い。貴方も私もなれるものである。

 「国民」と言うことについて前回取り上げた訳だが、どうでしょう? 私たちが会話の中で「国民」と言う機会は、法学の授業で憲法を読み上げる位しかないように思う。  

 テレビをつけよう、あらゆる議員が「国民は」と言うのだが、良く考えてみたら当たり前だが彼らも国民である。勿論彼らの配偶者、親族も国民である。では議員同士はどう呼び合うか?

 「〜先生」である。「〜さん」などでは無い。 然しだ、こんな議員がいても良いのではないかと思う。

 今度消費税があがる方向で事が進んでるが、比例で当選したものの、再選は確約されておらず、元が資産家の家でも無ければ特に収入が多かった訳でもないとなると、次の選挙にかかる経費や或いは予定してた車の買い替え、新築の予定、あらゆる面で支出が多く予定されてる場合、国会で消費税が上げられたら「私たち国民はやっぱり困るんですよ」と言っても良いのではないか?

 

 然し、そんな風に自らを名乗る議員はやはり国会に於いては特別な人間になってしまうかもしれない。 さて、ここの所少し固い話が続いたので息抜きをしたい。私はこんな事ばかり言ってると、ついつい万事につけ理屈っぽい嫌な人間に思われるだろうが、そんな事は無い。

 確かにそういう学識を衒う事に傾きかけた時期もあったが、悩み事を悩み続けるとキリが無くエンドレスになるから、如何に単純になれるかという事を常に意識している。  

 よく子育てで自分の時間が無くなった、と言う嘆きを聞くが私はだからこそ子どもが欲しいと思う。奥さんが妊娠したら夫としては先ず出産まで気が抜けないだろうが、考えてみたら嬉しい筈だ。自分と全く見ず知らずの遠くで生まれたりした異性とかなり希なる確立で出会い、結婚し、子供が出来たというのは単純に確率的に見て途方もない数字だろう。

 妙に思われるだろうが、これでも私は実は教会学校の先生である。他人の子供だからどうこう言うのは身勝手じゃないか、と思われるだろうが、子供達から学ぶ事は非情に多い。

 いつも考えさせられるのが、子供は大人より遥かに少ない語彙数しか持っておらず、 それでいて、説明しがたい感情を感じてはどうにか伝えようとするのだが、改めて驚く事でも無さそうだが大抵伝わるのだ。 

 私が子供の頃を思い出すと、確かに上手く説明出来ないなりにあれこれ思い巡らせた。 

 一年の一学期、私は終業式も近いのに殆どの荷物を持ってかえっていなかった。更には、朝顔を持って帰るという事すら段々面倒になってきた。

 母が雷を落とすのが恐ろしい余りに明日こそ、と思っていたら先延ばしになってしまったのである。然し、友人宅でちび丸子ちゃんの第一話を読んで何故かまるちゃんの様にこれでもかと言わんばかりの量を最終日に持って帰る事を企てた。呆れて母も叱るのを止めるんじゃないかと思ったのだ。  

 さて、最終日、私は上履きから未提出のプリント、流石にストックしてた給食のジャムは諦めたが、得体の知れないものから、例の朝顔まで持ってみようとしたが、はみ出るものもややあって、ランドセルの脇にあるポケットを使いどうにか収めた。あのポケットは飾りではなく、私のような馬鹿者の為にあるのだと悟った

 帰り道、一歩一歩がバランスゲームのようで、思わぬ疲れを感じながらどうにか家に帰った。母は「馬鹿だねえ」としかいいようが無かった。

 話はそれたが、このように一見馬鹿じゃないかと思われる行為の背景にも何某かの理由が必ずあるものである。長くなりそうだから子供達については又の機会に喋らせてもらうとしたい。

  大津に始まって、各地でいじめが問題になってる。何故いじめをするのかと言うのは簡単にわかるものでは無いだろうが、気になった事がある。いじめをした者たちは少し暇すぎやしないだろうか?こんな事言うと「お前は充実してたから解らないんだろ?」と言われそうだが、私は中公一貫校だったので、中学時代は部活が無いと極めて暇だった。

 そこで考えたのは恋である。と言っても寂しいもので、毎朝同じ電車に乗る子に勝手に恋人気分を投げかけてただけである。

 そもそも人間は暇になると物凄い力を発揮する。古代ギリシャのソクラテス、アリストテレス、プラトンなどは悪く言えば単なる暇人である。考えてみて欲しい。朝から飯を作って、洗濯をして、食器を洗って、農業をして、と一般的な生活をしてたら、「無知の知」など言ってないでお前も手伝えとどやしつけられそうだ。 それでいて、岩波の哲学だの思想の文庫を一冊も読まなくても、人生何も困らないだろう。  

 然し、彼らは古代ギリシャ文化の一角として、立派に教科書に名前を刻んでる。

 ずっと後にニーチェがいる。彼は哲人思想で知られてるが、最後は思想のうちに死んでしまったのだ。彼がもしサッカーか何かに興じる事が出来たら、多少楽に生きられたかもしれない。勉強とは暇だから可能である。産業革命の頃は子供も社会人と対等に扱われていたそうだ。然しいじめをするなら勉強を努力しろ、と言うのはご法度だろう

 いじめをし始める人間も実は薬物中毒と同じではないかと思ってる。限りない不安の穴埋めに誰かにあたる事から始まったとしよう。自分より弱い人間を作って、集団の一角としての自分には安心できるだろう。 然し、繰り返すうちに益々不安になる。故に行為を強力にしていく。結果、相手が死んでしまったのでは、最早取り返しはつかない。

 彼らは苦しみを超えて前進するべき時間を避けて、より苦しむ羽目になってしまったのだ。

 この話にはまた触れなければいけないだろうが、思春期に受験があって、これは昔からあるとしても、内申書が多くの若者を苦しめているのは間違いない。

 拘束を強めようとするほど、打破しようという力も増す。受験に自分が志望校から多少は人間性を見られるだろうとは誰もが考えてるはずだ。

 様々な一個人の中にある個性たる所以は全く見落とされるどころか、画一のものさしで計って、果たしてその人間のどこがどれだけわかるかなど怪しいものだ。