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徒 然 日 記

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岡崎智久

生きるんです

 2012.6.27
 

 

 前回のべた通り「死にたくなったら」というテーマで行きたいと思います。  

あくまでも私個人の感想ですが、死にたい、って言うのが病気であれ、借金やら事業の失敗でもなんでも一度も訪れない人はなかなかいないでしょうし、こと病気であれば、先の見えない不安や絶望が長期間続けば尚の事しんどい訳です。

 でも、宗教や道徳とは一切関係なく人間は本能的に生きることを渇望するようになっているんです。あの震災の日に、どんな人も先ず家族に電話が通じるか必至になってましたし、普段くそみそ言い合っていた人たちもそうしたことでしょう。それがいつの間にか「絆」なんて風に纏められてますが、少し間違っているように思いませんか?

 絆とは何らかの経験を共有し思想なりを互いに認め合い、様々な経過の上に成り立っているもので、多義語では無いのに、優しさや思いやりまでが代用されてるのは妙な感じがしてなりません。

 巷に言われるこの「絆」なるものが本当なら、消費税を上げるなんて話しは出てこないでしょう。被災者や就職浪人や失業者からも平等に取ることに一体何のつもりなのかまるで理解できないし、障害者にしても勿論ですし、福祉に関する法律が新しくなった場合、毎度毎度結果的には以前より損をする仕組みを上手くオブラートに包んで飲ませた様なケースばかりです。

 

 では、何故福祉が一向に良くならないかといえば、私が思うに誰もが「自分はならないから関係ない」、という心理がどこかにあるように思います。

 然しながら、人間は心の病でなくても、死ぬまでに多くの人は高齢になった場合に頻繁に医療機関に世話にならなければいけない訳で、非常に脆い生き物であることを常々認知しておくべきですが、教育の現場には義務的にかじる程度にあらゆる体調不良に対しての臨時の対応の一部(部活などで怪我をした、など)に触れればまだ良いほうで、やったことにして受験科目にばかり時間を割いてるのが殆どです。

 ですから、厳しくも障害の一当事者として思うのは、可能な限り病気に対する理解や、受けられるサービスを改善していくために戦わなければいけない、という事です。

 勿論、大きな壁と向き合うのは大変で気が滅入るし、出来ればそうはしたくないですが、やられっぱなしでは癪だというのも事実だと思いますし、少なくとも声を上げれば動いてくれる人は必ずいますし、今日はそういった働きをしてくれる方も沢山います。

 さて、上記の事もありまして、死にたくなったら、と言う事ですが、これは一概にどうこう言えませんが、もし近いうちに死ぬ事を考えてる人がいたら、先ずははやまらずにじっくり遺品を整理してみて下さい。昔のアルバムが出たり、懐かしいオモチャとかぬいぐるみ、制服だったり色々出てくるでしょうし、それは貴方を育ててくれた人やモノで、そして時間を共有したモノです。今の貴方の姿の裏には数多くの人のプライドがあります。

 ある人は親に恨みがあったりするでしょうし、これまた一概には言えませんが、今死のうと考えてる貴殿にも子供の頃があって、誰かには相当に面倒を見てもらって今に至るわけで、死んでしまったら何だか悲しくないですか?世間世間なんて言っても、所詮は人間の集団で、ある集団ないし組織なりに辱められても、違う社会に行ければもう一度チャンスが来るかもしれないし、振り出しに戻った積りでもう一頑張りしてみませんか?

 若くないし厳しい、という方もいらっしゃるでしょうけど、例えば私も携わっていますが、介護の現場は慢性的に人手不足です。世間では良く言われませんが、実際はとても楽しいもので、くよくよしてると声をかけてくれる方や、リハビリで段々足腰が回復していくのを一緒に見たり、思い出話を聞いたりして家族みたいな存在になります。

 ですから勿論死んでしまうととても寂しい思いもしますが、礼を言われるととても嬉しいものですし、世間ではパソコンや書類を扱う仕事が偉いように言われてますが、人間は結局は人間と接さなくなるととても具合の悪いものです。

 さて、性というのは矢張り暖かなものでして、下着姿の女性にはエロティシズムがありますが、一枚めくるとそこには「豊な尻」連想するなら、「母性」へと姿を変えてしまうんです。少し脱線しますが、あのニルヴァーナのラストアルバム(ライブ盤は除く)は「イン・ユーテロ」という題で、和訳すると「涅槃」というバンドが「胎内へ」と言う名前をアルバムにつけたのは、悲劇的でありながらも何か異なる匂いや観念を連想せずには居られないものです。

 女性の心理については分かりませんが、男性はへそのをから離れ、細君を持つのは、どうやら‘黒い髪で縛られてる’と言うよりも、新しいへそのをを求めているような気がするのです。 

 人間は確かに集団でいるにも集団でいる孤独があり、或いは嫌な事もあるかもしれませんが、皆さん初恋をしたとき何故手を繋ぎたくなるか考えたことはありますか?

 或いは、相手の顔や頬に口づけだったり、何故触れてみたいのでしょうか?

それはきっと言葉では解決できない、生命が本能に備えている愛を求める心理にあるのかもしれません。

 散漫な文章で申し訳ないですが、死にたくなったらもう一度恋をしてみようと思ったみませんか?お金も地位も名誉もかなぐり捨てて、一人の人間として、もう一度誰かを抱き締めたり、抱かれたりするだけで、何だか明日を覗いて見たくなるような気がします。

 次回は「SMは性欲か否か」です。