障害者の性と生

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車椅子からみた性と生
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COCO   

 プロローグ

障害者にジェンダーは存在しない!?

・トイレから見る障害者のジェンダー(男性・女性・車いす)    

 自分を「女性」とアイデンティファイしている私にとって、アメリカで女性用トイレに入り、友人と一緒にメイクを直したりできる日々は誇らしい気分をもたらしてくれた。

ラブ・ミー症候群 

・簡単に恋におちたりしないように
男性にやさしくされると、いつでも警戒した。「この人は『障害者の私』にやさしいだけなんだから、好きになっちゃいけない」と。障害を持った人にやさしくしましょうの精神じゃなくて、私という一人の女性に好意を持ってほしいと願いながら、そんなことあるわけないと言い聞かせていたから。


・こんな身体は愛されない
大きな胸も、くびれた腰も、すらっと伸びた脚も、きゅっと締まった足首も持ち合わせていない私は、愛されるわけがない。恋愛はやがてセックスへ。セックスはそんなボディを持った女性としたいもの。誰に「そんなことないよ」と言われても、そう信じこんでいた青年期。 その青年期の私が感じる 『障害者』 を本音で語ってみます。
 

車いすから見た性と生

 とびっきりの善意で私を手助けしてくれた多くの男性たち。感謝しています。どもね、家族でもなく恋人でもないあなたたちに突然身体を触られることは、やっぱり抵抗があった。いわゆる「健康な若い女性」を、いきなり抱っこしたりしないでしょう?  
 

  車いすは不思議な乗り物だ。強烈な印象を人々に残す。そんなわかりやすい乗り物を愛用する私は、「車いすの人」として人々の記憶にインプットされる。さらに不思議なことは、「車いすの」という修飾語は、他のごくありふれた修飾語をすべてかき消してしまうこと。「ピンクの服を着ている車いすの人」とか「髪の長い車いすの人」と言われたことはほとんどない。まして「女性の」と言われたことなんて皆無だ。かろうじて学校で「女子」に分類されたことくらいが、私の女性としてあつかわれた経験。  

 

 中学2年のとき隣の席になったT君はすごくやさしくて、小さなからだの私をかわいがってくれた。T君を好きになる度胸はなかったけれど、気軽に私を抱きかかえてくれることで、T君の彼女が気を悪くしないかが気がかりだった。そんな私の心配を周囲は笑って吹き飛ばしくれたっけ。「あなたに焼きもちやかないから大丈夫。」男子にも女子にも「女」として見られていないことを知った瞬間。

 高校では男性の先生が「抱っこ」してくれた。生理の日は気が重かった。でも断れない。「車いすの生徒を手伝う熱意あふれる先生」だからね。傷つけちゃうし、善意のわからないわがままな障害者と思われるから。でも、他の生徒だったらどうかな。『男性高校教師、女子生徒を校内で抱きかかえる!』なんて週刊誌の見出しになりそうなのに。「車いすの生徒」だと善行で、「女子生徒」だと犯罪。 「車いすの女子生徒」だった私は、「女子」の部分を消去された。

 街にはやさしい大人が溢れている。駅で、レストランで、あこがれのすてきなバーで、「お手伝いしましょう」と私を抱きかかえる男性たち。ありがとうございます。本当に感謝している。それは本当の気持ち。けれど、その度に私は殺される。私の顔も声も、服もメイクも、何が嬉しくて何が悲しく感じるのかも、そして女であることも。「車いすの」という言葉以外の修飾語が削除され、「車いすの私」以外は殺される。そんなふうに感じている。

 


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