青年期の性と生 |
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研究所客員研究員 武田雅都 |
2012/11/10 |
不定期連続「性」年告白文 |
〜“SEXY LADY”その2〜 |
話しが飛んで、かのプリンスの音楽に対する挑戦を、渋谷陽一氏が「新しい言葉を探すような・・〜コミュニケーションの模索である」と書いてるが、音楽というのも、それこそかの‘アラジンセイン’ことデヴィッド・ボウイが性を超越した存在、バイセクシャルと言うペルソナを生み出した事、或いはグラムロックそのものが、音楽的表現に飽き足らず、?みどころの無い心境への複合的な挑戦だったのか?など、考えあまねくと、成るほど納得できる話である。 性もコミュニケーションがあってそこに‘男女の仲’が産まれると紋切り型に教え込まれる道徳は間違っていて、「お互いに惹かれながらも何故か知りえない溝に手を伸ばして触れてみたい慾」が、男女を知らぬうちに接近させ、事に生じるのが実際のような気がする 。 全裸と言うのは無かったにしろ、江戸時代は女性が上裸でいたり、混浴も当たり前だったとか、ものの本でちらりと目にしたが、畢竟、「性とは秘匿ではなく、身近で開かれた大らかなもの」だったのだろう。 多くの明治の作家が西洋の“LOVE”をどのように翻訳するのかで議論の的になり、現在でも“愛してる”と言う、極めて簡素な言葉によって既成の事実のようになってるが、厳密に言えば、やはりどうにかしないと文章が成立していかないから当てはめたにすぎないだろう。その証拠に、我々は西洋で出会いの際に抱き合う事に対し、小恥ずかしいと思う方が多いのは、西欧が記してきた“愛”について、実のところ理解出来ないからなのではないか? 一方でセクシーというのは至って解り易い。所謂「ボン・キュ・ボン」な体系に限らず、今やあらゆる理想の体系が男女共々語られるようになり、「痩せマッチョ」なんていうのだから、女性もまんざらではない訳で、痩せ型の人間にもチャンスが来たのは良いことである。プロ野球もホークスやカープには多くの女性ファンが見受けられ、今や人気はどれだけ女性ファンを獲得出来るかにあるのではないか? 強さだけでなく、モダンなルックスやトークで魅了する男がちやほやされるのは、<嫉妬深いかすんだ闇に包まれた、封建社会の時代の終焉を知らせる黎明期>のようである。 話しが弾み過ぎてしまったが、「セクシー」というのは“ラッヴ”の対象とは同一ではない、どちらかと言えば「妄想」による、性的光景から伝播する満足に極めて近しい或いは、豊なる思いを喚起させる表面的な異性の有様、とでも定義してみると何となく手の届くものの様に感じられる。 何だか駄文を引き伸ばしてるように思われてはならないから、LOVEについて話しを戻すと、結局は解らないのである。故に“LOVE”なのである。 「何だかファンクミュージックの聴きすぎじゃないの?」と言われそうだが、「とにかくジャンプしよう、ビートに合わせて。ご機嫌だぜ、なんてほらね。」って、感じるものがどうやら“LOVE”なるものらしい。ファンタジーと言ってみても良さそうだ。 夏の甲子園だって、テレビはついついチアガールの子をクローズアップするのだが、吹奏楽で笛を“くわえてる”子が何の意図だか妙にエロティックだったり、ちょっとまくったスカートに弾ける若さが可愛らしい子も沢山いるし、タオルの使い方の艶かしい子もいたり「外野スタンドで食う虫も好き好き」なんて事考えると、強風吹いてハプニングの一つも起きないかな?なんて期待も(チラッと)わいてくるんでしょうね。そんなこんなで、どうにか文章つないじゃったんですけど、良いですか? |
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