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青年期の性と生
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研究所客員研究員 武田雅都
2013/5/1
     不定期連続「性」年告白文 
御洒落衰微記
 

 所謂先の「手ブラ」事件は皆さん記憶に新しいと思いますが、アムネスティインターナショナルに違反しての回収だったという事ですが、私が思うに、そもそもこの「手ブラ」、些か古臭い。

 笑っちゃいけません、大真面目です。所謂これが流行ったのは、まあ十数年前、90年代後半から00年代前半で、あの頃の週刊誌が育て親の私からしたらちょっぴり懐かしいものでしたが、今考えるとサルトルは人間の最も猥褻な姿は「自由を拘束された状態」だと定義していますが、これに反するようですが、私たちはフィルムに納める事が既に官能の拘束的行為、偶像化と言った側面があって、故に写真は既に猥褻であり、性が闊達で開かれた清清しい印象を与え、さながら江戸時代のように女性も乳房を出して闊歩し、混浴も日常的だった日本人が本質的に持っている豊かな実りに対する尊敬と自然が、暴力支配の時代を超えて幾分の含羞を込めて革命的表現として現れまして、スポーツ選手のような鍛えられた大柄なヌードが誉めそやされる、実に進んだ回顧するにルネサンス的な時代でした。

 その後、ロリータに反する暴言を混ぜたようなチープな刺激が、不況と異常なまでに締め付けた深夜番組だのの報道規制によって、まるで戦後のメチルのように流通し、エロティシズムは衰退、かつて赤線の廃止が学生運動を単なる暴徒にしてしまい、アテストが自由を拘束し、校舎の窓ガラス叩きわるのと同じやり方で歪められているように危惧しています。

  私はいつもいい教師は貧しいなりを持ってして現れる、と以前講義をした事がありますが、これは例えであって、絢爛な振る舞いや言葉では無いものであると体験上痛感しまして、いい先生の帰りの後姿は、充実感のようでいて少しいい知れぬ寂しさが付きまとっているようで、怪しからぬお調子者の読者は私のようにドンファンでしかも“ズルイ”やり方を知っていて類ともで共感しただけなんて言うでしょうが、然るに、言ってる貴方こそが“キケロー”だという反撃を加えたい。

 さて、手ぶらの話題に帰って、つまり古いものを持ち出しただけでは革新性に乏しく、表現のルールを知らなかったという恥までかいてしまったわけだが、アイドルにとってヌードのように秘密を一時に失うのは、本人がその気でも回りがうるさいし、尤も現代社会において効果的なアイドルの表現の最大限の猥褻を私なりに考えてみたので、読んでいただきたい。

 
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