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研究所所員 南 定四郎
 

高齢者の性が「精緻」になること

2012.11.3

 高齢者の性とは「枯れた性」だと言う人々がいます。しかし、私は「高齢者の性は精緻になる性」だと思います。引用文でちょっと遠回りをします。

 ――青春が甘美なのは、「粗(あら)さ」の中に様々な発展への可能性がはらまれているからである。「粗さ」に内在するエネルギーが次第に具体的な「精(くわ)しい」仕事へと結実していき、世の中に流通する何がしかのものになる。そのようなプロセスこそが、「青春」から「老年」への成熟のあり方の、一つの理想型だろう。(茂木健一郎『欲望する脳』81ページ・集英社新書・2007年刊)

 ここで述べられている「粗(あら)さ」とは若者たちの性にもあてはめることが出来るでしょう。高齢者の性に「粗さ」を求めることは出来ません。若者に比べて体力が衰えているからエネルギーもありません。私の場合、80才の当人と60才のパートナーとの性において、射精をしない(できない)私の肉体をいかにして絶頂感に至らせるかという休憩を挟まない際限のない刺激が性です。

 私とパートナーとは東京(相手)と沖縄(私)という3年間の遠距離間生活を費やして、ようやく再会して沖縄に同居しました。同居して5ヶ月になります。上記に述べたように「絶頂感に至る」までには相手に依存するばかりでなく、私自身も格段の努力を強いられることになります。性とは暴力的に一方的に強いられることではなく、双方が積極的に同方向の目標に向かって努力することです。いかなる努力でしょうか。

 「優しさ」の開発と「優しさ」の回想と追体験を必死になって掘り起こす努力です。かって、八ヶ岳山麓のホテルに一泊したことや箱根の保養所に一泊したときの性体験を遠い過去の記憶から引き出します。その脳裏に浮かんだ映像が消えないように集中して甘美な性を繰り返し繰り返し想起します。既視感(デジャヴュー)の意識的あるいは人工的な読み取りと言ってもいいでしょう。

 その間にも相手の側は肉体の摩擦やさすり、接吻、まさぐり、体位の変化、移転、交換などなど様々な肉体行為を続けなければ、私の想像力は途絶え、瞬く間に無感動の肉の塊に硬化してしまいます。私の側においては脳内の想像に関する分野を活発に働かせ、相手の側においてはもっぱら私の肉体の刺激に奉仕するのが私たちの性の現状です。

 このような状態は少なくとも1ヶ月に1回が精いっぱいです。したがって、子どもが遠足に行くのを待ちこがれるように、あるいはスポーツマンがトレーニングで競争日まで調整するように、性欲望を自制しながら期待を熟成させていかなければなりません。相手の側も同じです。両者がベストコンデションでなければ、よい結果は出ないのです。まさに日常的に、刹那的に「精緻な性」を用意しなければならないのです。

 
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