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研究員 坂口せつ子
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母が入院している病院は5階あるのですが患者の病状や、治療方法によって病室の配置が決められています。母は「療養型病棟」といわれ、その階は患者の治療をするというよりはリハビリ中心の病棟なのです。従ってそこに働いて居る職員も医師と看護師ばかりではなく多様です。そうして、病室には同性患者が入院しているのが一搬的ですが、母がお世話になっている病室はなぜか男女混合なのです。 従って母は病状によりこの病院の全病棟で治療を受け、これから又少なくとも6カ月の介護を受けるのです。病院は原則として家族の付き添いは不要としているのですが、入院して1・ 2日の看護師さん方の患者に対応する実態を見て、母を1日と言えどもフリーハンドで病院にお願いしておくのに不安を感ずると共に、母自身も夜になると昼間の母とは全く人が変わった様に、幼児のような状況になり中々寝付くことが困難になっていました。やむを得ず家族の者が夜一定程度の時間付き添うことをしているのです。母は私の仕事柄 かなりのことも何とか聞き入れて、入院からこの5ヵ月で1周年を迎えるに至っています。 このように経過を述べると、母が病む経過の中で自分の努力で変わって来たようにように感じられますが、毎日一定の時間を過ごしている私には偶然に同じ病室になったということで病友になった一人の男性患者さんとの出会の賜物であると思っています。その方をAさんとしましょう。 年令は私と同じぐらいでしょうか。母と病室が同じ日になってからすぐ声をかけてくださいました。 私の母とのやり取りを垣間見ていてたまらなくなったのでしょう。 母はAさんと意気投合し、他愛ないおしゃべりが始まり、そこへ共に療養生活を患者たちがみんなで自分の言いたいことをしゃべるようになったのです。それぞれの病気を持った人達がみんな自由にしゃべるのですから、それは賑やかなものです。 3人がしゃべれば、3人は自分で言いたいことを勝手にしゃべっているわけですから、その会話に筋道なんてあったものではありません。でもAさんはそれを、面白おかしくしかもやさしくまとめてみんなを引き付けてしまうのです。 母の病室は順に明るくなり、就寝時にここが痛い、そこをもめ、布団が重い、足がむくんでいる等と言って消灯時間の午後9時まで私をイライラさせることは極端に少なくなっていきました。母曰く「私はAさんと一番気が合う」と言うのでした。こんなことで私の毎日の病院通いも少しその足取りは軽くなりました。 しかし、母が今一番気が合うといっている方は、実は母がかって知り合いだった男性と重ねているようでした。母が今の私の年のころ「婦人会」という女性運動団体があり、その団体のリーダーのはしくれをしていたころ、その団体の人間関係がとてもうまくいっていたらしく、よく遠隔の地まで旅行を楽しんでいたものでした。その団体の旅行には町の出身者の男性がカメラマンを兼ねた添乗員として同行していたようでした。 母はこの方とAさんをダブらせていたようです。このような母の様子を見ていた私はすぐ次にはもっと心配になることは優しくしていただいたAさんとの別れをどう乗り越えさせるかということでした。 いくら考えても名案が浮かばないうちにその日がやって来てしまいました。かといってそのことをAさんにお聞きすることも何かはばかられて出来ません。 私は「ここは、母の状況に寄り添う以外にない」と自分なりにきめたのです。 Aさんも気を使ってくださって「ばあちゃんに泣かれて別れるのはつらい」とおっしゃるのです。ボケも大分進んでいる母。「人となじむのに時間がかかる」母を今どうするか、困惑に震える私の思いは天にも届いたのでしょうか?Aさんが病室の皆さんにお別れのご挨拶をする少し前に母はうとうとと眠りはじめました。 |
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