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研究員 坂口せつ子 |
母は今、病のため家から余り遠くない病院に入院、治療を受けています。もうすぐ1年になるのですが、私は一日も欠かさずに一日5時間は母の元に出掛けています。100才を越えているので所謂「ぼけ」は全くないとは言えませんが、最近はびっくりするぐらい「まとも」な話が出来ます。
一日中他人の中で暮らす母を見舞うのは肉親の事とは言えそんなに楽なことでないのですが、昼食がすむとどうも私は落ち着かなくなって足は自然に病院に向かってしまうのです。すると母は家族の者に関わることを私に問います。 「せつ子、ゆうべ父さんは帰ってきたかや?」 と先ず聞き始めました。私はこの問を真正面に受け止め 「父さんは、もう30年も前に死んでしまったじゃないの……」 なにとぼけているの!との思いをあらわに答えたものです。母は少しすると又「父さんは……」と聞くのです。父の健在中は子どもの目から見てそんなに中が良かった夫婦とは思えなかった父母だったとの思い出の多い私は母の毎日のようなこの問は何かなと考えるようになりました。 |
そうしてある日又「父さんは……」の問にごく普通の会話の調子で「いつもの時間に帰ったよ」と答えてやったのです。そうしたら何と母の毎日の「父さんは……」の問は忘れたようにしなくなるではありませんか!おや?これは又どうして?と思いながら「父と母」の在りし日を思い返したのです。
私は自分の5才ぐらいの時の情景をまざまざと思い出すのです。その頃私たち一家は千曲川左岸の山の中の小さな集落に住んでいました。電気はまだつかずランプの暮らし。 |
稲作は殆ど不可能でしたので養蚕が主産業。蚕の上がる時期になると大きな家でも殆ど蚕に占領され、家族は皆で一つの部屋で夜も過ごさなくてはならず、「上蚕」近い蚕が桑を食べる何とも言えない「ざわざわざわ」という音は今でも脳裏に焼き付いています。わが家はそんな村落で「庄屋」と言われていて、父はその家の長男であったということもあって若い時から村の所謂「顔役」であり、当時の区会議員等もつとめていたのでした。 それは、千曲川の川原を開墾して「水田を作り自力で農業を活性化」しよう……という提案です。時には役人を招聘して「飲ませ 食べさせ」して何とか今で言う公費で、当時国の土地であった千曲川原を村民に解放させようと、誰にも一銭の負担をさせずに、会議を開き、今で言う「陳情」を繰り返したといいます。当然 父は毎夜家をあけていたのです。しかし、村の人達は父の提案をどうしても支持してくれなかったと、当時の建設省北陸地方建設局千曲川工事事務所刊の「千曲川」には記録されています。
私が記憶していることは、山の中の暗い夜道を母にしっかりと手をひかれて父の様子を見に行く母のお供をさせられたことです。母は毎夜村人の反対の中で、一人私財をなげうって奮闘している父のことが心配でじっとしてなどいられなかったのでしょう 100年を生き、今病む母の脳裏にはこんな不安でいたたまれない思いが未だにに去来していたのだろうか?病院を訪問するために千曲川にかけられている橋を毎日通過するたびに、又、今は全戸が開墾 整備された千曲川原に住む人々の事などを思い、「ボケ」が進んできている今も、とうに死別している夫の安否を気遣う、一人の女……母を看取っているのです。 |