母を描く

“人間と性”教育研究所所員
“人間と性”教育研究協議会
長野サークル代表
坂口 せつ子

 

山崎 津苗  明治35年1月15日生  101歳
10人も子どもを産む。長男(生きていれば80歳になる)は
第2次世界大戦で亡くす。現在、骨折からはじまった種々の
異常で入院中。でも母をしっかり務めていて、病床から子どもを
叱咤激励をする。

 
  私の母は明治35年生まれ、現在万101歳と3ヶ月になりました。母の30歳代後半の国策「産めよ 増やせよ」の大号令に素直に従い、わが家の子育て能力など顧みることなく11人(うち一人は生まれてすぐ死亡してしまったという)の子どもを産み育てたのです。

 母のこの子育ての最中に日本国は第二次世界大戦に突入し、やがて敗戦という社会情勢になりました。私を中心に兄弟の状況を簡単に述べると兄が3人、姉が一人で次が私でした。そうして、私の下には妹4人、弟一人という構成。

 しかし、現在は私の上には兄が一人いるだけです。親との続きがらでいう長男の兄は19歳で自ら志願して「帝国海軍の兵士」になってしまいました。このように書くとそんなことは当時の日本国中いくらでもあった!とすぐに思う方の方が多いのでしょうが、とてもそんな単純なものではないことを当時10歳ぐらいだった私の脳裏に焼き付いています。

 ある日、母が自分よりずっと身長の高くなっている兄を精一杯伸び上がって雑巾のようなもので軍人志願の兄を叩き続けているのです。その見幕は子どもの私なんか声も出せない雰囲気でした。私は子供心に「こわい母ちゃん」の姿に物陰に隠れて怖いもの見たさに見たり、隠れたりしてドキドキしていました。今考えると母はこの日精一杯の力を振り絞って、兄の軍人志願を食い止めようとしたのだと思います。

 そんなことがあって、じきに兄は「歓呼の声に送られて」故郷をあとにしました。しかし、駆逐艦に乗ることになった兄は日本が負け戦の兆候が出始めた昭和20年2月フィリピン沖の開戦で死亡。「紙ぴら1枚が白木の箱に収められた兄」にわが家一家は出会うことになりました。

 母はずっと本当に沈黙のまま我が子の町葬、家での葬儀に参加していました。

 

そうして、今 その頃から数えて60余年の歳月が流れたのですが、母がこの、亡き兄の話が出ると必ず「男の子だったけど色白の可愛い子だった」というのみ、他の言葉は聞いたことがありません。

 この母を見て(またはこの文章を読んで)100歳になってぼけたかなんて仮にも思わないで下さい。母は可愛くてたまらなかった子どもへの思いを意識して深めたかめつつ「国家が進めた戦争で殺された我が子への無念の思い」を胸に包み込んでいるのだと、毎日一緒にいる私は感じているのです。