月刊「ゆた かな くらし」

連載より

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研究所所長 高柳 美知子
 

月経−聖から不浄へ

  前号では、少女のころ、“女のからだは不浄”の呪縛に苦しんだことをお話ししました。それにしてもなぜ、女のからだは不浄とされたのでしょうか。それは 血を忌むというところからきています。初潮を迎えた私が、これこそ不浄の根源 と直感したのは、まさに的中だったのです。霊山・霊場が「女人禁制」をしいてきたのも、慣行にしたがって土俵上で府知事盃を手渡そうとした大阪府の太田房江知事が「待った!」をかけられたのも、神楽を写そうと神楽殿によじ登った女性カメラマンが振り払われたのも、すべてこれ「血のけがれ」のせいです。

 

◆けがれ、忌むべきもの

 血がどれほど忌むべきものとされていたか、まずは次の安産祈願の念仏をきいてください。

  

  月には七日のやくなれば 

年には八十四日ある 

今朝まですみしが早にごり 

濁りし我が身をせせぐには

ぼんちの下の井の水で井の水くんですすぐべし

すくいてこぼすも恐ろしや

こぼせば大地が八つにわれ

ほのぼの煙りも立ち上がり

山へこぼせば山の神 

地の神荒神けがすなり

天火で干すも恐ろしや

日輪様も汚すなり

夜干にほせば星明神月輪様も汚すなり

南無阿弥陀仏のお念仏を

三べん申して桑の木の桑の根本へこぼすなり

その血のとがも恐ろしや

昼夜血の波わきかえる

ひろさが八万余仭なり

深きが八万余仭なり 

中へ落ちる罪人が池のそこへ押しこまる…

 女性には月の厄が一年に八十四日間あって、その度に神仏をけがしているのだと繰り返し強調しています。安産祈願とはいいながら、女は「血の池地獄」に落ち込まざるを得ないのだと煽りたてる、このおどろおどろしさはどうでしょう。

女性の生理作用を不浄とみなし、その血のけがれによって女性は原罪を負うものであるとする考え方は、仏教に限ったことではありません。神社神道においても、血をみることはけがれでした。村や町の産土神を祀る神社の祭りでは、血穢(月経や出産によるけがれ)のある女性への禁忌が定められていました。妊婦は神棚や神社に近づいてはならず、出産の際は村のそとに隔離されて忌籠ることを義務づけられました。けがれは、同じかまどの火を通して他者にも伝染すると考えられていたのです。産屋、産小屋と呼ばれているのがこれです。

 産屋を建てないところでは、多くは納戸で分娩をおこないました。そこを産室にするのは、日が当たらないからだとされ、分娩後も太陽の光にあてるのを避けて、しばらくは戸外へ出ることもはばかられていました。

 別のところで寝起きし、別火で炊いたり煮たりうるのは、月事(月経)のときも同じです。これもまた「血のけがれ」が家族の者に影響が及ぶことを避けるためでした。

  この月経小屋の遺俗、都会ではあまり見られませんでしたが、農村、漁村では 近年まで残っていました。神事に関する忌みは、都会でも厳密に守られ、戦勝祈願の参拝では、生理中の女性は鳥居の外にはじかれたものでした。

◆古事記にみる「恋の唱和」

  ーヤマトタケルとミヤズヒメでは、月経をけがれと見るようになったのはいつ頃からなのでしょう。わが国最古の文学『古事記』をひもといてみましょう。第一二代景行天皇の皇子ヤマトタケルは、東征の途中、尾張の国造の娘ミヤズヒメを見初めて婚約。結婚は任務を終えてからということでそのまま東国へ旅立ちました。やがて首尾を果たしたタケルは、約束どおりミヤズヒメの家を訪れますが、酒盃を捧げ持ってあらわれた彼女の裳の裾に、赤いものが…。どうやら月経中ようです。そこでタケルは歌を詠みました。

 

 

ひさかたの 天の香具山

利鎌に さ渡る鵠

弱細 手弱腕を

枕かむとは 吾はすれどさ寝むとは 吾は思へど

汝が著せる 襲の裾に月立ちにけり

 

(天の香具山を鋭い鎌のように飛んでいく白鳥、その白鳥のようなしなやかな腕を枕に、共寝をしようと思うのだが、あなたの裳の裾に月がでているよ)

ミヤズヒメも歌を詠んで応えます。

 

高光る 日の御子

やすみしし 吾が大君

あら玉の 年が来経れば

あら玉の 月は来経ゆく

うべなうべな 君待ちがたに

吾が著せる 襲の裾に

月立たなむよ

  

(日のように輝く皇子様、ご立派な大君様。年が過ぎれば、月もまたそれにつれて過ぎていきます。本当にまあ、あなた様を待ちきれずに、私の裳の裾に月の出るのも当然でございましょう。)

 そしてこの夜、ふたりはめでたく「御合(結婚すなわち性交)」へゴールイン。勇者とたおやめの、なんとおおらかな恋の唱和ではありませんか。

 この神話からもうかがえるように、わが国の創成の時代においては、月経は決 して忌むべきものではありませんでした。それどころか、神の巫女としての資格と考えられていたのです。月経の兆しをみた女性は、家族と別れて特別に小屋にこもり、別火生活をしながら神を迎えます。それは月経がけがれているからではなく、神に召された者として神との交わりをもつためのものでした。女性がこもる小屋は、神聖な樹木のそばに建てられました。その木の多くは、槻の木であったので、そこから「槻屋」と呼ばれたといいます。古来、社寺の建造に多く使われたという槻の木は、今日では欅の木と呼ばれています。槻から欅になぜ変わったのかは不明ですが、神社の境内に欅が多いのはうなずけるところです。

 人々が血縁的に共同体をつくって、力をあわせて生産し、またそれを共有をしていた「元始、女性は太陽」(平塚らいてふ)であった時代、一定の期間をおいて流れ出る赤い血−月経は、神への畏れと結び合った神聖なものであったのです。

 

◆神聖なるものからの転落

じつは「古事記」には、もう一カ所、月経が登場する場面があります。第二一代雄略天皇が立派な槻の木の下で宴を開いていたときのこと。一人の女官が槻の木の葉が酒杯に落ちたのを知らずにそのまま差し出したところ、天皇は立腹して、その女を打ち伏せ、刀をとって首を斬ろうとしました。驚いた女は、天皇を褒めたたえる歌を必死で詠み続け、ようやく許しを得たのでした。

それにしても雄略天皇は、たかが木の葉一枚で、なぜこれほど腹立したので

しょう。それは月経とかかわる槻の木の葉だったからです。えっ、腑に落ちない …とおっしゃるのですね。たしかに前項のヤマトタケルは、ミヤズヒメの月経など少しも意に介さなかったのですから合点がいかないのは無理はありません。その疑問をとくカギは、前者の登場は二世紀はじめ、後者は五世紀半ばーということは、大和朝廷による国土の統一が果たされ、中国の封建思想の影響も大きくなっていて、すでに女たちは「他によって生き、他の光りによって輝く病人のような蒼白い顔の月」(平塚らいてふ)のくらしを強いられていたのでしょう。

 こうして月経は、国家の誕生とともに不浄なるものへと転落してしまったのです。そしてその思想は、国家が強大になっていく過程で支配のための道具として強められ、さらに中世以後の仏教、儒教の大衆化の中で人々の意識とくらしの中に深く深く根をおろしていったのでした。

 


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