月刊「ゆた かな くらし」

連載より

bP
研究所所長 高柳 美知子
 

からだ−それは自分自身

 私は十五年戦争と共に育った“戦争っ子”。「日本は唯一の神の国。戦争は大東亜共栄圏を築くための聖戦」と、毎日、毎時間、血脈一杯に注入されて大きくなりました。そして敗戦。「一億火の玉」の標語は「一億総懴悔」に塗り替えられ、学校では教科書の「墨ぬり」が…。そう教えられ、そう信じてきたことが、こうも簡単に抹消されることへの納得のい かな さが、胸底に澱となって沈んでいきました。自我の萌芽、魂の自立のかす かな 始動です。戦争っ子”であった私の戦争・戦後責任ーそれは、墨で塗りつぶした教科書を自分の頭で、心で、書き直すことだと考えるようになりました。

 かくいう私も、いまや七十路です。

 

  老いらくの来むと知りせば門さして

         なしと答へて逢はざらましを                          (古今集895)

  

 〈老い〉が来ることがわかっていたなら、門を閉じて「留守だ」と答えて会わなかっただろうに…の意です。だが、〈老い〉はだれにとっても避けようのないもの。「人生八十年・九十年」をどう歩んでいくか、この前人未到の課題を、読者の皆さんと共に探っていきますので、どうぞご支援を。

◆からだは自分の「存在証明」

 私たちは誰しも、女であること・男であることを選んで生まれてきたのではありません。父親の精子と母親の卵子が合体して受精卵となったそのとき、XとYの性染色体が組み合わさって決まったものーつまりは、偶然のめぐり合わせというものです。

 とはいえ、その与えられた〈性〉で生きていかねばならない以上、それを肯定的に受けとめるのか、それとも否定的に受けとめるのかは、人生に大きい影響をもたらします。まさに〈性・からだ〉は、自分が生きていることの「存在証明」なのです。

 ところで、あなたの「自分の性・からだ」との出会は肯定的、それとも否定的でしたか? 女性か男性か、また育った環境や時代によっても、それはずいぶんと違ってくるでしょう。

 

◆困惑と恐怖とー“戦争っ子”の私の場合

 女の子が自分のなかの「女の性(からだ)」に向き合うのは、胸のふくらみ。そして、初潮(初経)。自分の意思とはかかわりなくふくらみ、血を流す「自分のからだ」と体面するなかで、自分が「女」であることを否応なく自覚させられていくのです。

 “戦争っ子”の私の場合は、まさに否定的な出会いそのもの。戦時中の学校教育の柱は、天皇の神格化と身体の鍛練です。

 昼休みになると、全校児童が校庭いっぱいに拡がって上半身はだかの乾布摩擦をくりひろげます。先生の号令一下、手ぬぐいで腕、胸、背中をキュッキュッと擦るのですが、私は死にたいほど嫌でした。母も祖母も胸の大きな人で、その遺伝子を受けつぐ私の胸が大きいのは当然の話。友達のそれと見比べては、恥ずかしさで消えいりたい毎日です。ふくらみをストップさせようと、夜になると家族の目をぬすんではへこ帯を幾重にも胸に巻きつけ、祈る思いで眠りについたのでした。女のからだは不浄とされていた時代。自分の胸のふくらみを大人の女になっていくときめきと受けとめることなど思いもよらず、ただただ淫らな肉塊として恥じ入るばかり。

 初潮という一層の汚辱にまみれたのは、B29の空襲が激しさを増してきた敗戦の年の春。当時は性教育など望むべくもありません。家庭でもきょうだいは男ばかり、頼りの母親も空襲や戦時生活のやりくりで追われていたためか、それとも自分の女の性(からだ)に誇りがもてず、娘に語るのを一日のばしにしていたのか…。私は何の予備知識もないまま、ある日突然、自分の股間から流れる不気味な〈血〉と向き合ったのでした。そして、これこそ“不浄の正体”と直感したのでした。

 少女の私が「女のからだは不浄」との考え方を、いつ、どのようにして身につけていったのかー。だれかに面と向かって教えられた覚えはありません。男尊女卑の帝国憲法に縁どられた暮らしの中で、祖母や母、叔母たちのさりげない会話やふるまい、女は最後と決められていた風呂の順番、あるいは読みかじったおとなの小説から、いつとはなしに嗅ぎとったものなのでしょう。

 「女のからだは不浄」の意識と感情は、自分は男より本質的に劣っているのだという男尊女卑の思想をそのまま受け取ってしまう精神の土壌につながっていきました。そして戦後、帝国憲法から民主憲法に、教育勅語から教育基本法へと180度の価値観の転換を果たしたあともなお、私を呪縛しつづけました。

 −人間はどうしてからだなんてもっているんだろう。精神だけの透明人間になれる魔法はないかしら。

 自分のからだにはりついてくる他人ーとりわけ男性の眼差しに射竦められて、よくこんな馬鹿馬鹿しい夢想にふけったものでした。 

◆からだは自分自身−アンネ・フランクの場合

 私の否定的な出会いと対照的に、すこぶる肯定的に自分の(性)と出会った少女がいます。ナチのユダヤ人狩りを逃れるための隠れ家で、『アンネの日記』を書きつづったアンネ・フランクです。                  一九四四年一月六日 木曜日

 生理があるたびに(といっても、今までに三度あったきりですけど)面倒くさいし、不愉快だし、鬱陶しいのにもかかわらず、甘 美なひみつをもっているような気がします。ある意味で厄介なこ とでし かな いのに、そのつどその内なる秘密がふたたび味わえる のを待ち望むというのも、たぶんそのためにほ かな りません。(略)ときたま夜なんか、ベッドのなかで自分の乳房をさぐって みたい、そして心臓の静かでリズミカルな鼓動に耳をすましてみ たい、そんな衝動を強く感じるころがあります。   (深町真理子訳)

 

 なんとみずみずしい感性でしょう。それにしてもアンネはなぜ、こんなにも素敵に「自分のからだ」と出会えたのでしょう。私との違いをつかみたくて、繰り返し読んで得たカギは二つ。ひとつは、彼女は〈性〉についての科学的、生物学的な知識を学習していたこと。もうひとつは、自分の〈生〉に向ける視線の深さ。自分の〈生〉を自認し、その主体者として生きようとしたからこそ、アンネは自分の〈性〉と正面から向き合い、いとおしいものとして受け入れることができたのです。

 私が自分自身を「女の性をもって生きる人間」として肯定的に受け止めることができるようになったのは、いくつもの惑いをくぐり、いくつもの人生の節を我が身に刻んでから、さらに女性史や科学を学ぶことで歴史的、社会的な視点で自分をとらえられるようになってから、すなわち四十路を過ぎてのことでした。

 女性が自分のからだについて知るということは、たんにからだそのものの解剖学的、生理学的構造や機能を知るだけにとどまりません。自分と人とのかかわりや、また、そこに介在する社会や文化、政治、経済といったものの構造を可視化することに通じていきます。自分の存在の根拠であるからだへの意識を解放することは、主体者として生きるうえでの根本条件といえましょう。


《 bQを読む 》