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「同性愛を哲学する」 |
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哲学することの散歩(その7) | |||
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ここに紹介した文章は1979年9月に発表されたもので、金色の表紙のA4版の雑誌「遊」別冊・組本・遊ち組「ホモエロス」(工作舎刊)に掲載された4ページ+5行にわたるエッセイのほんの一部です。中井英夫氏は『虚無への供物』という長編推理小説でデヴューした小説家で、泉鏡花賞を受賞しています。 冒頭に掲出したこの文章は今から28年前に書かれたものですから、現状といささか遠い昔話ということになるかも知れません。とはいえ、人間観察を職業とする小説家の目から見たホモセクシュアルについての言及ですから、あながち現状とは異なることを言ってはいないと思われます。とりわけ、中井氏は自らを同性愛者として公言することはなかったものの、その作品の中には同性愛者であることを裏付ける「状況証拠」を公然と散りばめています。 デヴュー作『虚無への供物』の出だしの部分は浅草のゲイバーが舞台となっています。角川書店で『短歌』を編集していた頃に塚本邦雄、春日井健を歌人として世に送り出したことで有名ですが、塚本、春日井の両氏は知る人ぞ知る……と言えばご理解できることでしょう。 このように前置きが長くなったのは、冒頭の文章を解釈するのには、行間に隠された微妙な心的風景、あるいは心の渇望に立ち入るためには欠かせないからなのです。すでに、お読みになった方には了解されることでしょうが、カギ括弧でくくられた冒頭の数行の文章は新宿二丁目の印象文にしか過ぎないと読みすごしてしまう危険をはらんでいます。そこで、立ち止まるためには、文章作者の人となりを知る必要があるのです。 中井氏はきわめてシャイな、また自己洞察を徹底した小説家でした。趣味は高尚、歌舞伎、新劇、バレエ、絵画、香道、薔薇づくり……など多岐にわたり、とりわけ人間についての趣味(見分けと言ってもいい)は最後の審判における神のごとく厳格であるとともに、懐に入れれば優しく寵愛する、という気むづかしさと純愛の小説家でした。したがって世俗的なことは嫌い、自らの価値観を貫く頑固な側面がありました。それは、中井英夫全集(創元ライブラリ)の各所に発見することができます。 その中井氏が求められて執筆した同性愛論の一部が今回の文章です。 さて、この文章では「わざと早口のおねえ言葉で″くっちゃべる″のだ」と、書かれています。この場面は″くっちゃべる″のであって、話すのではありません。 それは饒舌とも異なり、もちろん会話とも異なり、″くっちゃべる″以外に書きあらわせない状態です。よだれを垂らしながら一心に草を食する牛のように、際限もなく言葉を吐き出す、さらに相手の話など聞く間もなく一方的に吐き出す、相手側も負けてはならじとばかりにかぶせて吐き出す。それが、「わざと早口のおねえ言葉」ですから、すさまじい。 なぜ、こうなのか。この両者は相手に何かを分かってもらうために説明をしているのではないからです。自分の思いを一刻も早く吐き出したいからです。今は過ぎ去ったことなのだけれど、一瞬間だけ味わうことのできた同性愛の官能的な喜び、その象徴となる男性性器の感覚を最大洩らさずに語りたいからです。語ることによって追憶し、心に定着したいからです。したがって文脈も意味もおかまいなしに、ただひたすら吐き出す。 その悲しい、実体性の薄い、再現不可能な経験は幻覚としてしか現れることがないでしょう。と、すれば″くっちゃべる″よりありません。ゲイバーという閉ざされた空間であれば、それは誰も非難しないばかりか、物欲しげな好奇心をも満足させることでしょう。 中井氏はこのような世俗の風景を擁護しようとはしませんでした。それは秘すべきもの、ひとりの胸に消えることのない灯として大事に仕舞いこみ、ときどき思い返してみるべきものだと思ったに違いありません。 「新宿二丁目界隈には、もはや月光は断片すら届かず」と書かれた一行がありますが、「月光」は中井氏にとって、単なる天然現象ではありません。古代人が心に抱いたように、それは神が支配する夜の光です。 真の人間世界の時間は日暮れとともにはじまり、明け方になって閉じます。すなわち地をたがやすことがないからこそ精神の営みが優先され、言葉ではなく皮膚感覚が知を育む、そのような暗闇を統括し照らす月光は断片すらない。逆に「安手な人工照明ばかりが氾濫する」そこでは、「駆け引き」や「見せびらかし」や「虚言」や「裏切り」などが跳梁するステージを照らす照明が「氾濫」しているのです。 そのような地上では、かっての美しかった記憶が失われてしまいました。その記憶とは古代にまでさかのぼらずとも、中井氏の青年時代、つい戦前の旧制高校があった時代を思い起こしているのだと解釈してもいいでしょう。 その時代に見たり、話したり、歩いたりした美少年の面影と生き方を復活することの困難を知ればこそ、男性器について″くっちゃべる″しかない。「堕天使はひたすらそれを追い求め」と渇望の心は切ない響きをもっています。太陽の近くまで昇りつめた天使は、その熱に溶かされて地上に落下した、その堕天使さながらに同性愛者は「手に取り、頬を寄せてまで聴かずにいられないのであろう」と言います。「聞く」ではなく「聴く」というとき、それは傾聴するという意味に転換します。耳を傾けて聞く、何度も聞くーーこれが「聴く」です。 堕天使は目前の男性性器からはるかに遠い本籍地、失われた美の世界を幻想しなくてはならない。「遠い潮騒を、故郷の海鳴りを。コクトオのいうとおり、己の耳を貝殻にして。」 そう書き記した詩的な結論を現状批判というべきでしょうか、回帰願望というべきでしょうか、それとも来るべき未来への希求というべきでしょうか、それは読者の詩心にゆだねられています。 |
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(07,10,28) |
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