セクシャル・マイノリティー
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「同性愛を哲学する」
 
人間と性”教育研究所事務局長

性と生」研究サークル代表

南 定四郎  
 
哲学することの散歩(その5)
 

 この欄を誰も読んでいないのではないか、と思っておりましたところ76歳の男性から「難解だ」というメールを頂きました。なるほど、読んでくれている方もいるのかと、いささか元気づけられて復活いたします。    

 さて、この欄が「難解だ」ということですが、それは決して否定するわけではありません。しかし、同時に同性愛についての文章はあまりにも分かりすぎることが多いというのも不満です。同性愛とは精神的な愛を語ることではなく、だからといって、性行為の方法を語るのでもなく、お友達さがしのお手伝いをするのでもなく、その本体は「同性愛に関する個別性と普遍性の統合」を語るということです。  

 

 同性愛者」というヒトはいません。いるのは「この同性愛者」「あの同性愛者」というように「A氏という同性愛者」「Bさんという同性愛者」「C君という同性愛者」です。それは個別的な同性愛者なのです。名前の数だけ同性愛者がいるわけですが、これを個別性と言います。そして、これら個別の同性愛者に共通するもの、誰にでも一貫する法則のようなものがありますが、これを普遍性と言います。個別性とともにある普遍性を含めて同性愛者を考える人間学をひもとく、というのが私のやろうとしていることです。  

 このような作業は、なじみのある作業ではありません。したがって、多くの方々が「難解だ」というのは否定しません。しかし、あえてやさしくしようとも思いません。なぜならば、私は同性愛についての指南役ではないからです。私の至らぬ頭で考えること、その同時進行形を披瀝して皆様とともに考えを深めたいと思っているからです。  

 さて、せっかく76歳の方から「同じ悩みを抱く者」というメールを頂きましたので、私も75歳の同性愛者として、その「悩み」に応えたいと思います。  

 昨夜、一晩、眠れぬままに「悩み」について考えました。考えれば考えるほど私には「悩み」がないのです。そう言ってしまえば正確ではありません。「悩み」がないわけではありません。次のような「悩み」があります。      

 

二人の弟(70歳と65歳)が秋田にいますが、彼らは統合失調症で30年以上も入院をした後に在宅治療で通院しています。彼らの生活に必要な最低限度の保障をしなければならないのですが、それが重荷になってきた」  

「体調が不調になる。とりわけ、胃腸障害がしばしば起こる」

「年金支給額が月額9万円で慢性的金欠病となっている」

「雨天が続き洗濯物が干せない」

「ある単語を忘れてしまい、どうしても思い出せない」

  まだまだ出てきますが、しかし、この種のものは頂いたメールにある「悩み」とは違って、およそ世俗的な問題であり、何らかの処置あるいは努力をすれば自然に解消します。したがって「悩み」はなくなるのです。  

 そこで、「悩み」について、あらためて考えてみると、それは「同性愛者」であることにまつわる「悩み」でありましょう。76という年齢にして「悩む」というのであれば、「われは、なぜ同性愛者であるか?」という「悩み」ではなく、「誰か同性愛者のお相手がいないものか?」という悩みなのではないでしょうか。  

 これは高齢化社会の特徴的な「悩み」です。それを大きく分けると次のようなものとなるでしょう。      

 @老化にともなう生殖機能の衰弱と比例しない性欲のギャップ。  

 A「死」を意識化すると同時に出現する「失われた時」への執着。  

 B身ひとつになった開放感から生まれる性へのチャレンジ。  

 Cあらためて問われる「幸福とは何か?」。      

 以上の問題項目は何れも、人間にとっての「プラス思考」と言うべきものです。考えようによって「悩み」から一歩踏み出す行動へ導くものです。しかし、多くの人々は「煩悩やみ難く」と、「悩む」のでしょう。さっそく、問題の分析から入りましょう。      

 

 @生殖衰弱と性欲のギャップ=(イ)ヒトという生物には良き遺伝子を保存し適応させながら繁殖していく生殖機能がある。生物である限り、遺伝子にはあらかじめ決められた生命時間があるので、生殖が終れば生理機能が衰弱する。(ロ)性欲は脳神経の働きであり、生殖の生理とは一体ではない。(ハ)この2つの体内系統がギャップを生む。〜〜しかし、その葛藤は時間がたつにつれて自然に解消する。  

 A「失われた時」への執着=マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という小説は、1908年から書きはじめて死に至るまで書き続けられ、この1冊のみで1922年に他界した。この小説は、同性愛者としての自らを赤裸々に描き名作文学の名を残したものである。同性愛について否定的な時代であったからこそ「失なわれた時」とその人生を位置づけたのであろうが、現代の同性愛者にも共通する感想ではないだろうか。  

 B身ひとつになった開放感=拘束されることのない環境は、高齢化社会であるからこその出現なのである。しかし、そのときには相手となるべき同性愛者がいないというのも現実である。相手というものは棚から牡丹餅のように都合よく手に入るものではない。人知れず努力するとか、手塩にかけるとか、日常不断に気遣いをするとかの過程が必要なのである。その過程がなかったことは仕方がないとしても、高齢者においても同じ筋道を覚悟しなければならない。  

 C「幸福とは何か?」=明治の哲学者・九鬼周造は「粋の美しさの一つの要素は、諦念=すなわち、物事に拘泥せず、ある段階で自らの欲を捨てることである」と、論じている(九鬼周造『「いき」の構造』)。ここには美的な観点こそが、 利己と利他のバランスに指標を与える提案がある。(南條史生『幸福のメカニズム(欲望と粋とサバイバル)』p231・『図録・ハピネス』所収・淡交社・2003年刊)。つまり、利己(自分)を考えることと利他(相手)を考えるバランスが必要だということである。        

 

 いかがでしょうか。四つの問題を考えてみて、同性愛者の「悩み」は、そんなに深刻なものではないことが分かったでしょうか。ドイツの哲学者・ハイデガーが『存在と時間』の中で「人間は死を前にして有限の時間を生きなければならない。その時間を気遣いという心配りをしながら努力して生きることが大切である。」という趣旨のことを言っています。「気遣い」「努力」をキーワードにして この章を終ります。

 
(07,7,25.)
 

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