セクシャル・マイノリティー
bS
 
「同性愛を哲学する」
 
人間と性”教育研究所事務局長

性と生」研究サークル代表

南 定四郎  
 
哲学することの散歩(その4)
 

 都内の某大学に用事があって出かけました。

 バスストップの前に小さな建物がありました。写真の展覧会の看板が出ています。バスを待つ間の10分間、暇つ ぶしのために入ってみました。

 壁面にディスプレーされているのは1年生の写真作品です。あるディスプレーの前に立ったとき、驚きました。『そして僕らは変態した』というタイトルです。被写体は恐らく男子生徒であろうと見えます。白いレースの女性用ブラジャーを胸にして、へそをむき出しにした4人組みが肩を組んで笑顔のポーズをしています。その他、これに類した集合写真がべたべたと貼りつけられています。恐らく学園祭のときのもので、女装バーのホステスをした学生がモデルになったのではないかと思います。  

 そして僕らは変態した』というタイトルは変態性欲(アブノーマル・セック ス)の表現なのではなく、生物の変態を比喩的に用いているのだと思います。私の年齢(75歳)だと、「変態」はアブノーマルと翻訳してしまいますが、現代の若者たちは、そのような捉え方をしないのだと思います。ここで語られている 「変態」とはサナギが蝶に生成変化するときの「変態」を指しているのではない か、と思います。

 そのような変身願望、あるいは日常から非日常への飛躍を希求する意志を含意しているのであろう、と鑑賞しました。  

 ところで、ここに写されている変身は綺麗ではなく、滑稽を狙ったものだということが一目瞭然です。頬にぬられた紅は田舎娘の顔をつくるためであり、唇から故意にはみだした口紅は笑いをさそうためだという意図がはっきりと読み取れます。しかも、陽気に笑っています。さんさんと降る太陽の光の下で裸をさらし 、女装を崩した、何の屈託もなくカメラに収まる大学1年生たちがいるのです。

 彼らは周囲に対して一切の警戒心を抱かず、ふざけながら日中の大学キャンパス の公道で同性間身体接触をしています。空中にふりあげた一人の男性の右手は、 あたかもシャモジを握ってでもいるいかのような身振りをしています。気張った様子はなく、きわめて自然な表情をしています。そこには「隠花植物」などと自称して自虐的に世間にしゃしゃり出ていったオカマといわれた人々のように片意地張った姿勢はありません。どこにでもいる普通の男の子が集団でふざけている 姿です。

 入り口に貼ってある展覧会の趣旨を書いたボードによれば、ここに掲げられた作品群は昼間は働いていたり、学生ではない若者たちの作品である、と表示してあります。彼らは夜間になって大学にやってくる、したがって一般の昼間の学生とは異なり、さまざまな生活背景を持った若者だということが説明されています。 であればこそ、なおのこと、屈託のなく「変態した」僕らに興味がわいてきまし た。

 変態」は何からの変態なのか?  かって、昼と夜は全く異なる世界でした。電気の発明されていなかった時代、昼 は明白な道徳に支配された社会であり、夜は闇に閉ざされた悪魔の跳梁する社会 でした。日本でも昭和はじめ頃までは同じです。江戸川乱歩の小説『D坂の殺人事件』はまさに、家庭に電気が配電されてくる時代だからこそ成立したトリック が用意されています。それは、ともかく、昼と夜の異なる社会には、それなりに 異質な意識空間が存在しています。そこから考えれば、この写真世界の若者たちは異質な空間を移動することによって「変態」するのではないでしょうか。

  すなわち、「管理された日常からの変態」なのではないでしょうか。昼と夜という二つの世界を往復する彼らにとっての異郷が大学であり、異郷に集う仲間が「変態 集団」であり、そこにおいて非日常に生まれ変わるのではないでしょうか。 このような若者風俗には、たいへん考えさせられました。ここで、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(故人)が『知への意志』の中で出した三つの疑いについて考えざるを得ません。次の通り述べています。  

 

「抑圧の仮説」と呼ぶものに対しては、三つの重要な疑いをさしはさむことが 可能だ。第一の疑いは、性の抑圧は本当に歴史的に明らかなことなのか、という 点である。(略)第二の疑いは、権力の仕組み(メカニック)、特に我々の社会 のような社会において働いている権力の仕組みは、本質において抑圧の次元のも のなのか。(略)そして最後に第三の疑い、すなわち、抑圧に語りかける批判的 言説は、それまでは異議をさしはさまれることなく機能してきた権力のメカニズ ムに交叉してその道をはばもうとするものなのか、それとも、その言説が「抑圧 」と名付けて告発している(恐らくは変装させてもいる)ものと、同じ歴史的網 の目に属しているのではないか。抑圧の時代と抑圧についての批判的分析の間に は、本当に歴史的断絶があるのか。(ミシェル・フーコー/渡辺守章訳『知への 意志』p18〜19・新潮社・1986年刊)

 

 「抑圧の仮説」は当然のことながら「同性愛抑圧」も含みます。「抑圧がある 」という仮説には三つの疑問がある、といいます。第三に述べらている「抑圧に語りかけた批判的言説」とは、「抑圧に対して批判的に語りかける言説」と解釈できます。ここが大事なところですが、「抑圧」に対して「批判的」に語りかける「言説」は「権力のメかニズムに交叉して」(権力がおよぼそうとする)「そ の道をはばもうとするものなのか」と、いう疑問を提出し、この疑問を解くために『知への意志』全217ページの論文が書かれたのです。詳しくはこの哲学書をひもといていただきたいのですが、とりあえず、某大学の写真展を観ての帰途 、しきりに『知への意志』で論述された「抑圧の仮説」について思いをめぐらし ました。  

 若者たちの「変態」には、私たちの世代が経験した「抑圧」の呪縛からみごとに解放された心性があるような気がしました。それが、笑いをとるショーなのか 、「抑圧」を意識さえもしない普通なのか、一時的な遊びなのか、単純な道化役者なのか・・・社会学の課題となるのかもしれません。あるいは、昼から夜にス イッチ・オンした別の人格なのかもしれません。  しかし、そのような人格切り替えは、私たちの時代にもよく見られることでし た。ゲイ・バーという世界がそうです。ドアを開ければ別世界がある、夜の12 時になればシンデレラ・タイムとなって俗世間に戻ってゆく。そのような時代とは何か画然と異質な風俗が見てとれた写真展でした。

(07,3,8.)

 

 

 

 

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