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「同性愛を哲学する」 |
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| 哲学することの散歩(その3) | ||||||
A君はB氏とは10歳のへだたりがあります。B氏の休日には年下のA君が前夜から泊りがけで訪問して、家事をするという関係になりました。どっちが先に声をかけたというのではなく、お互いに好感を抱いたというのです。そんなA君の話です。 「昼食はスパゲッテイを僕がつくったの。一緒に食べ始めたら、フォークを皿にぶつける音をたてるなとか、うるさいうるさい。何かと僕を教育しようとする。腹がたったからスパゲッティを皿ごと顔にぶつけて出てきちゃった」。異性愛者のカップルだと、こんなにすさまじくはならないのでしょうが男性同士、いったん爆発したら修羅場です。 一般に「同性愛者のカップルは長続きしない」と言われています。異性愛者は結婚すると法律で相続権が付与され、その代わり両者が合意しない限り離婚はできない。 離婚後、6ヶ月間は再婚できない、などの法律的な拘束がある。だから、なかなか別れることができない、とも言われます。 同性愛者のカップルには、そのような法律上の拘束がない。したがって、気に入らなくなればさっさと別れてしまう、と言うのです。 このような見方はある一面の真実ですが、しかし、「同性愛者のカップルが長続きしない」背景は必ずしも法律的な条件ばかりではないような気がします。 同性愛者は生まれたときから同性に対する性的指向を抱いて成長してきました。 気がついたときには同性に性的関心が向いている思春期を迎え、同性の相手を求めてパートナーを見つけます。ただ、それぞれの成育史は異なっています。ある人は教養に満ちた環境で育ち、ある人は野放図に育ったかもしれません。そのような自分史の差異には目をつぶって、カップルになる例は少なくはありません。 また、ことさら自分とは異なる生活基盤を相手に求める場合もあります。 イギリスのジョー・アッカレイという小説家は次のように告白しています。
これは1970年の話題ですが、今の日本にも通用することではないでしょうか。ジョー・アッカレイの例に見られるように「しだいにズルくなって服従しなくなる」「そのときには別な赤い制服の若者が、ちゃんと見つかっている」というパターンを逆の立場から告白したのが冒頭のA君です。 社会的タブーの厳格な時代には、ひそかな人間関係を維持するために金銭的な報酬が必要でした。むしろ金銭的関係として処理した方がトラブルを防げたとも言えます。ジョー・アッカレイが語る37年前にはイギリスの市民社会でさえ同性愛について法的見解が是正された(『前同書』p380)と言われています。日本社会においても同様に市民意識は変化しています。そこでは金銭的関係という単純なつながり方よりも、身分的な関係や黙示の契約的関係や相互補完的なサービス関係や情報共有関係など、さまざまな生活向上の共同とともに身体的な満足感が追求されているようです。 とは言うものの、「同性愛者のカップルは長続きしない」というのは、まだ一面の真実であることに変わりありません。 ここで、「対他存在」という哲学の話をいたしましょう。「自分は他の存在なしには生きられない」というのが「対他存在」です。分りやすく云えば、個人というものは他人から見た個人であって、個人それ自体が存在しているわけではない。相手がいるからこそ個人が成立するわけで、誰もいない無人島にぽつんといる個人は、もはや個人としては存在しない、ということです。 誰でも孤独に陥ることがあります。そのときの頼りない自分というものに直面したときの憂い、不安、絶望などなど病気をした人間なら誰でも想像することができるでしょう。たとえ完全看護の入院だったとしても、病院の外に広がる生活の将来に対する明確な不安を解消することはできません。突然、無能力に陥った人間は否応なく「対他存在」を自覚するはずです。 同性愛者のカップルには「対他存在」の意識に欠けるところがあるのではないでしょうか。性行為というものが相手との共働であることは自明だとしても、長い間に蓄積された自己愛の習慣が「対他存在」の希薄につながっていると私は考えます。 ですから、同性愛者のカップルというものはお互いに「対他存在」に目を向けながら、カップルになる努力をしなければならないのだと思います。 フランスの哲学者のミシェル・フーコーは次のように言っています。
まさに「今までとは異なった仕方でお互いに対する感情を表現すること」は「対 他存在」のあり方なのです。そして、「伝統的な図式には似ていない生の様式」 にこそ生き甲斐を発見したいと思います。(2007・2・2) |
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