セクシャル・マイノリティー
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「同性愛を哲学する」
 
人間と性”教育研究所事務局長

性と生」研究サークル代表

南 定四郎  
 
哲学することの散歩(その2)
 

 前回は「私は誰か?」という問いかけをしながら、わき道にそれてしまいました。今回は本題にもどって「私は誰か?」について考えます。    

 「私は誰か?」についてはさまざまな言い方があります。当然ながら「同性愛者である私は誰か?」ということですが、この大前提である「同性愛者」ということに関しても単純にきめてかかれることではありません。先を急ぐ前に次の文章を読んでみましょう。    

 精神分析のジャック・ラカンは、われわれは眼差しの主体ではなくて、眼差しは外にあること、そしてわれわれはむしろ眼差しを向けられている存在であることを強調する。

 「可視的なものにおいて私を根本的に決定しているもの、それは外にある眼差しである」。  「私は見られている。つまり、私こそがタブローである」。 これらはあまりにも有名なラカンの箴言である。つまり、われわれは見るがゆえに在るというよりも、見られるがゆえに在るのである。 (岡田温司『ルネサンスにおける遠近法』50ページ・大林信治・山中浩司編「視覚と近代(視覚空間の形成と変容)」所収・名古屋大学出版会刊)    

 

 ここに述べられていることは、主体的な「私」の側から「私」をきめられることはなく、「外にある眼差し」によって「私」が存在させられているのだ、ということです。それは「見るがゆえに在るというよりも、見られるがゆえに在る」と、なっています。  

 たとえば、「私は同性愛者である」という認識は、主体である「私」が、そう認識するからではなく、「同性愛者」として「見られるがゆえに在る」と、いうことになります。鏡をみて「私」を認識できることは誰でも疑いようのないことですが、その鏡となるものこそ、「外にある眼差し」なのです。そもそも私たちに「同性愛者」という名前を貼り付けたのは異性愛者です。異性愛の圧倒的な多数の中に違和感を覚えさせる存在があり、異性愛者と同じ存在を排除していったところで、残ったものを「同性愛者」であると名づけたから、この世に「同性愛者」が立ち上がってきたのです。ここにこそ「外にある眼差し」が生きてくるではありませんか。  

 私自身の例で言えば、私は思春期の始まる頃には自分を「同性愛者」だと思うことはありませんでした。ある地方都市に生活していた私は、その町の数少ない書店の平積みの台にあった風俗雑誌を手にいたしました。何げなくページをめくりながら立ち読みをしているうちに、一編のルポルタージュの記事に目がとまりました。読みすすむうちに、そこに書かれている人物像は私自身とそっくりでした。胸をとどろかせながら読み終わったとき、記事の中に登場した「同性愛者」という言葉が私の頭の中を支配しました。「そうか、俺は同性愛者なのか」という思いが私をはじめて異性愛者とは異なる存在であることを認識させたのです。  

 私は誰か?」という「私」とは、このようにして「外にある眼差し」によって「私」であるのです。  

 ところで、「私」のすべてが「同性愛者」であるわけではありません。職業、財産、社会的位置、家庭、健康、気質、知的機能、感性、発語内容、嗜好、趣味、人間関係などなどさまざまな「私」を同時に生きています。  

 

 私自身の例で言えば、私は同じ職業を3年と続けることは出来ませんでした。就職して3年すると、その職場にいることに苦痛を感じて依願退職をしてきました。そのような転々とした職業遍歴の末に、「私は同性愛者だから一つの職業に執着できないのではないか?」と自問しました。しかし、職業の継続困難は同性愛者であることに原因があるのではなく、職場における人間関係の不器用さにあることだったり、あるいは、どこかに今の自分ではない真の自分を生かせる場があると思い込んで漂流するという未熟さであったことでもありました。その他、上記の「財産」にはじまる数々のリストに私をあてはめていけば、そこに見えてくる「私」は主体である「私」なのではなく、「外にある眼差し」によって見える「私」です。私は上記のリストから任意の項目を選び出して「外にある眼差し」を重ねあわせ、ある場面の「私」になります。このようにして私は社会的生活に適応します。では、「同性愛者である私」は、いつ、どこに出現するのでしょうか。  

 それは、まさしく性において「同性愛者」である私が出現します。  

 私が私である究極の存在は同性との性におけるときです。それは、上記のリスト上のいかなる意味にもあてはまりません。しかし、その性といえども、眼差しを避けることは出来ません。性愛の場面で私の愛情と行為が同性愛者である相手に伝わり、相手の感覚的認識=眼差しが私に向かう、そして私に対する愛情と行為が増幅する。その反応を感覚的に見て私は高揚しながら相手に働きかけてゆく、この相互反復の極まりに同性愛の身体的・精神的な絶頂が訪れるということを経験します。  

  それは見る、見られるということを通じて同性愛者という実体に迫ります。そのとき、純粋な概念として「同性愛者」が存在するのです。上記のリストに列挙された項目の概念はかなぐり捨てられて同性愛者としてのみ生きています。

 

 ある65歳の男性が私宅を訪れてきて、「私は同性愛者でしょうか?」という質問をいたしました。彼は、その年になるまで同性と性的行為を経験したことがありません。たまたま、温泉の湯船で80歳すぎの男性に声をかけられ、その縁で二人は同性同士の性行為におよんだのだそうです。以来、65歳の男性は80歳の男性を忘れることが出来ず遠隔地を飛んで逢いに行く生活が3年継続しています。相方の年齢は次第に死期に近づいていきます。もし、自分が同性愛者であるなら、相方が死んだ後の人生をいかに過ごしていったらいいのか不安だ、というのが質問の内容でした。  

  質問にあった「相方の死後、65歳男性の身上相談」についてはさておき、「私は同性愛者でしょうか?」を考えたいと思います。  

  すでに「私が私である究極の存在は同性との性におけるとき」と書きました。この言い方からすれば、相談者の不安のいかんにかかわらず、「同性愛者である」と言います。同性との性の相手が特定個人であれ不特定多数であれ関係ありません。ある男性は「私は特定の男性を対象として性行為をしている。性行為の相手を女性と思っているから、同性愛者ではない。」と言います。その相手は女以上に女っぽいので、並の女性と性行為をする気にならない、とも付け加えます。しかし、これは内実がどうであれ、同性との性に変わりはないわけで特殊化することはできません。このように主張することとは「外にある眼差し」にいかにして近づくかという心理的操作にしか過ぎないと言えましょう。「外にある眼差し」が強制する劣等感から逃れ、自己否定をしたくないという保身の術と同じことです。  

 65歳の相談者の不安は「外にある眼差し」にあります。同性愛者に対する社会のレッテルづけが不安なのです。否定することの困難な「外にある眼差し」におののいているといわなければなりません。  

  さて、同性愛者としての私の「究極の存在は同性との性におけるとき」であると再確認した上で、「私は誰か?」という問いを再び起こすならば、「同性愛者であり、同性愛者でもない」という結論となります。さきに列挙したリストに重ねあわせた「私」は同性愛者であることを契機として現われることではありません。それは「外にある眼差し」の指し示す「私」です。片や性における「私」はまさしく同性愛者であることの究極です。このような単一ではない「私」をスイッチ・オンにしたりオフにしたりしながら「私」は生きています。それは「私」の使い分けというよりも、矛盾した「私」をかかえこみながら生きているということです。「私は誰か?」それは矛盾そのものである「私」です。(2006・8・17)  

 

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