セクシャル・マイノリティー
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セクシュアルマイノリティ(Sexual Minority)とは、同性愛者(ゲイ、レズビアン)、半陰陽者(インターセックス)、性同一性障害(トランスセクシュアル、トランスジェンダー)など、異性愛が規範であり絶対とされる性のあり方から外れる、異端視される人たちの総称です。全体的にみて少数者であることから性的な少数者、セクシュアルマイノリティといいます。性的マイノリティとも言われることがあります。

 
「同性愛を哲学する」
 
人間と性”教育研究所事務局長

性と生」研究サークル代表

南 定四郎  
 
イントロダクション
 
 この欄を担当する私は当年とって74歳の同性愛者です。 同性愛者としての「性と生」については『老いてなおすてきな性を』(かもがわ 出版刊)に文章を発表しておりますので、そちらをご参照ください。私が同性愛者であることを自覚したのは20歳の頃でした。それから54年間も同性愛者として生きてきたので、語り出したら尽きることがないほど材料はあります。しかし、そのようなことには飽きてしまいました。同性愛者の性生活がどのようなものであるか、同性愛者の卑近な実例報告を語るなどということに、さして意味を見出せなくなってしまったからです。では、なぜ、ここに登場したかということですが、タイトル通り「同性愛を哲学」的に考えたいからです。そんなわけで私なりに精魂こめて語るつもりですので、おつきあいの程を伏して乞い願い奉る次 第であります。
 
 
哲学することの散歩(その1)
 

 最初から小むずかしいことを大上段にふりかざしているかのような印象を与え ますが、決して、そのような難解なことではありません。  

 私は誰か?」という問いは、同性愛者である誰でもがぶつかる初歩的な問いです。答えは「同性愛者である」ということになるでしょう。解説本を読めば「同性愛者としてのアイデンティティ」に目覚めるなどという文章に目がとまるはずでアイデンティティ」とは心理学的な概念です。詳細は心理学の本で「アイデンティティ」の項目を引いてみてください。 さて、「私は誰か?」という問いかけは、きわめて哲学的な話題です。ちょっ と文献をひもといてみると、次の記述が目にとまります。

 

 ピエールがどれほど遠い場所にいようと、わたしは世界において彼を目指す。そしてわたしの想像力とは、自分の周囲にわたしの世界が存在し続けることにほかならない。わたしがピエールを想像するということは、「ピエールの振る舞い」をわたしの中で作動させて、ピエールの擬似現前を作り出すことである。(メルロ・ポンティ著・中村元訳『表現としての身体と言葉』21ページ・「メルロ=ポンティ・コレクション」所収 ・ちくま学芸文庫)    

 人間が自分を認識することの原初的な状況を語った文章ですが、私なりに解釈 すれば、ピエールという、ここには居ない人物を思い出そうとするときには、ピ エールの振る舞いを私の頭の中で復元させて、ピエールの擬似的な現在の姿を作 り出すことになる、ということです。「擬似的現前を作り出す」という捉え方は 、きわめて同性愛者的です。したがって、「私は誰か?」から迂回して、しばら く、このことについて考えてみます。たとえば、街頭で目と目があった同性愛者同士が何となくホテルに直行してベッドを共にした。名前も聞かず、どこに住んでいるのも聞かず、セックスが終ると彼はタクシーに乗って立ち去った。そのあと、彼の存在は思い出の中に美しく生き続ける。このエピソードはミシェル・フーコーというフランスの哲学者が『 同性愛と生存の美学』(哲学書房刊)の中で紹介していますが、ここで語られた彼とはピエールと思っても差し支えないでしょう。もう少し、その内容に立ち入ってみると、ミシェル・フーコーは次の通り述べています。      

 二人の人間の間の関係の本質は一方がもう一方に隷属するかどうかである、と何世紀もの間みなしてきた文化において、人々の興味と好奇心、彼らの狡智の一切は、相手に屈従を強い、ベッ ドに一緒に入るよう強いることであった。性的出会いが容易で頻繁になった今では、そしてこれは今日の同性愛の場合でもあるのですが、諸々の複雑化は行為の後で生じる。したがって、この種の容易な出会いでは、寝た後でしか 相手に対して好奇心を抱かないというわけです。性行為が終わってから、相手に「ところでお名前は?」と尋ねるわけですね。このような状況では、異性愛関係においては憧憬的恋愛に向けられていたエネルギーと想像力のすべてが、 今度は性行為そのものを強烈にするのに貢献することになります。

ミシェル・フーコー著・益田一夫訳『同性 愛と生存の美学』65〜66ページ・哲学書房刊)    

 ここで延べている「憧憬的恋愛」というのは、この文章の前のところでギリシ ャ時代から鳥瞰した同性愛と異性愛の文化について語ったことを受けています。 大雑把に言えば、中世ヨーロッパの宮廷で発展した騎士と貴婦人との恋愛におい て、騎士は貴婦人に憧れるのみであった。時代が下がってトルストイの『アンナ ・カレーニナ』では青年士官が貴族の館の階段をのぼって貴婦人の寝室に入るま でが描かれており、その後はない。つまり、貴婦人を憧憬する心の経過にエネル ギーを費やすことが異性愛の文化であったが、同性愛の文化では性行為が終わっ てからものごとが始まるというのです。 ミシェル・フ−コーが「寝た後でしか 相手に対して好奇心を抱かない」ということは、性行為がすべてだなどという肉 体に耽溺することを語っているのではありません。相手を見つけることが困難で あった抑圧史の中で同性愛者たちが磨き上げてきた性文化について語っているの です。  ここで、メルロ・ポンティの文章に立ち戻って、ピエールを想像することにつ いて復習しましょう。「擬似的な現前(今、目の前にいるかのような)」を自ら作り出すことによって、不在のピエールを想像すると記述されています。想像する自らの努力によってピエールを立ち表わさせるのです。したがって、「恋人がタクシーで立ち去った後に至福のときがくる」(ミシェル・フーコー)というこ ととつながることとなります。同性愛者である誰彼は想像の中に相手を生きさせ る文化を育ててきました。たとえ、同棲をしている同性愛者であっても、目前に ある身体を越えて想像による努力をすることで相手を認識する、ということです 。  

 同性愛者が「私は誰か?」と問いかけるという話題はどっかへ行ってしまいま したが、ここでは、その「私」とは不在なのだということだけを云っておきます 。同じように彼もまた不在ですが、詳しくは次回に繰り延べといたします。  

 徐々に「哲学する」深海にすすみますので、ご期待ください。

 また、ご質問、 ご意見もお寄せください。皆さんとともに考えを深めて行きたいと思っています 。(2006・7・10)  

 
 

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