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今月のコラム

“人間と性”教育研究所理事・目黒原水協代表理事
青木 清


(2010/8/10更新)

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私の8月6日


 

 私の8月6日8時15分は、この20年近く目黒の羅漢寺にいます。ここには広島の原爆で死んだ移動劇団さくら隊の慰霊碑があります。

 丸山定夫・園井恵子をはじめ9人のメンバーの中に仲みどりがいます。被爆後、宇品の収容所から裸にシーツをまきつけた姿で列車に乗り込み東京に脱出した仲は、8月16日に東京帝国大学付属病院に入院しました。                    

 ここで原爆症研究の父とも呼ばれる都築正男博士に出会い、8月24日に彼女は35歳の生涯を閉じますが

「原子爆弾症」と、世界で初めてカルテに記載されました。

 後にこのカルテが問題となります。GHQ(連合軍総司令部)により原爆関連の研究発表が禁止され「たとえ命令でも発表禁止は人道上許しがたい」と強く反発した都築博士は、翌21年に公職追放になります。後に昭和29年、彼の名誉は回復され日赤中央病院の院長となりビキニ被災の医学調査を実施します。 

 この都築博士と同時に思い出すのが長崎の永井隆博士です。歌謡曲「長崎の鐘」でも知られた人ですが、奥さんを原爆で亡くし自らも被爆しながら、多くの被爆者の救護に当たった人です。これら業績から昭和25年に国会の表彰を受け、天皇から銀杯が贈られます。 

 熱心なクリスチャンであった博士は、同時に反共主義であったとも伝えられています。そのためアメリカの原爆使用は戦争を早期に終わらせ、ソビエトの進出を阻止したことになり、やむをえないことと容認しました。 ともに軍医として従軍した二人、一方は軍医であったことを理由に公職追放。一方は天皇銀杯授叙。いずれも被爆者の治療に多大な功績を残した二人です。 

 長い原爆の歴史はそうした違いを超えて、いま核兵器廃絶を国際世論に広げ、現実的な課題になろうとしています。ようやくここまで来たか。そんな思いを抱えながら、今年も「さくら隊慰霊碑」の前に立ちました。